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| 清水城は斯波兼頼の孫成沢兼義の次男満久が文明八年(1476年)北方の守備のため、この地に築城したのが始まりである。以後、最上地方を統治したが、五代清水義高は庄内から侵攻した武藤義増と戦い、1565年本合海で討死した。その子の六代清水義氏は娘(清水御前)を最上義光の側室にして最上義光の後ろ盾を得た。七代清水大蔵大輔義親は最上義光の三男であるが、義氏に後継ぎがいない為、養子として清水家に入った。清水義親は若い頃、豊臣家に近侍したため、豊臣家との内通を疑われ、慶長十九年(1614年)兄の最上家親に攻め滅ぼされた。義親の嫡子義継も十三歳の少年であるが切腹させられ、清水家は滅亡した。 清水は最上川舟運の要衝で仙北や大崎にも通じる重要拠点だった。このため、大いに繁栄したが舟運の中心が大石田に移ってからは往時の繁栄は失われた。そして鉄道の開通によって最上川舟運が廃れてしまうと清水の重要性も失われていった。 |