土佐壇・柴橋陣屋

室町幕府の政所代、蜷川親俊(親世)の墓「土佐壇」柴橋陣屋(代官所)の跡

(写真左:室町幕府の政所代、蜷川親俊(親世)の墓「土佐壇」)(写真右:柴橋陣屋(代官所)の跡)

柴橋の金谷原には「土佐壇」と呼ばれる墓がある。これは室町幕府政所代(沙汰人)であった蜷川新右衛門親俊(のちに親世)の墓とされる。蜷川氏は代々新右衛門を名乗り足利将軍家に仕え、「一休さん」の蜷川新右衛門のモデル蜷川親当もいる。蜷川親俊も十三代将軍足利義輝に仕え、丹波国船井郡蟠根寺城に拠ったが、永禄八年(1565年)主君義輝が松永久秀に討ち取られるという事件が起こり、親俊は落衣(寒河江市)の高松左門を頼り、出羽に落ち延びた。息子の親長は土佐の長宗我部元親のもとに落ち延びた。親俊は金谷原(寒河江市)で数年暮らしたが永禄十一年(1568年)失意のうちに亡くなり、金谷原の土佐林に葬られた。以来人々はその墓を「土佐壇」と称するようになった。一方土佐に逃れた息子の親長であるが、長宗我部氏が関ヶ原の戦いで西軍に属し、所領没収されると国人一揆が徳川方へのを城引渡しを拒んで抵抗した。親長は一揆と戦って城引渡しを成功させた。この功で親長は徳川家康に仕えて御伽衆となり、子孫は旗本として続いた。

山形には幕府直轄の天領が多数あり、その支配のために寒河江、尾花沢、長瀞、漆山、東根など多くの陣屋(代官所)が置かれた。柴橋陣屋もその一つで宝暦十年(1760年)に代官小田切新吾郎によって構築された。明和四年(1767年)頃には七万四千石を支配し、代官は柴橋と寒河江の両陣屋の代官を兼務した(代官会田伊右衛門)。文久二年(1862年)柴橋代官の新見蠖蔵は寒河江陣屋を統合しようとしたが寒河江の村々が反対し、訴訟となった。慶応二年(1866年)代官山田佐金二のとき、ついに柴橋・寒河江両陣屋は統合され、寒河江の長岡山に陣屋を新設。だが翌年明治維新を迎えて代官の支配は終焉した。