新庄城 |
(写真左:新庄城址のお堀。新庄城址は現在最上公園として市民の憩いの場になっている。) (写真右:新庄城の表御門跡。) (写真左:新庄城址の中にある戸沢神社。新庄藩主の戸沢氏を祀る。鳥居のあたりが新庄藩政庁の玄関だった。) (写真右:新庄城址内の天満神社。新庄藩主戸沢氏の氏神で戸沢氏が角館にいたころから崇拝されていた。) (写真:新庄藩校明倫堂跡) |
新庄城ははじめ鵜沼城、その後沼田城と呼ばれたという。天正九年(1581年)最上義光が新庄楯主の日野左京亮を破り、最上地方を征圧したらしいのでその頃にはあったものか。また最上義光の家臣、日野将監定重が築城して統治し、これより「新城」と呼ばれるようになったともいう。日野将監は1614年藩主最上家親(最上義光次男)の命を受けて清水城主(大蔵村)の清水義親(最上義光の三男)を大坂方に通じた疑いで攻め滅ぼした。その後、新庄の沼田城に居を定めて清水義親の遺領を統治したが最上家は藩主家親の急死後、跡目をめぐる家臣団の争いが勃発し、元和八年(1622年)改易されてしまう。日野氏も藤堂家に預けられたという。最上氏改易後、この地に入ったのは戸沢政盛である。戸沢氏はもともと陸奥国雫石(岩手県)の豪族で室町中期に出羽国角館(秋田県)に移り、戦国時代は夜叉九郎こと戸沢盛安が活躍し、安東氏や小野寺氏を破り、仙北地方を中心に勢力を拡大した大名である。関ヶ原の戦い後、盛安の子、戸沢政盛は常陸国松岡四万石に移封されていた。政盛は最上郡と村山郡の一部を合わせて六万石を与えられた。はじめは鮭延城(真室城)(真室川町)に入ったが手狭のため新庄への築城を申請し、義兄鳥居忠政(山形藩主)の縄張りで寛永元年(1624年)築城を始め、翌年新庄城に入った。以来、戸沢氏は新庄城に拠って最上地方を統治し続けた。幕末になり、戊辰戦争が勃発。新政府軍についた新庄藩は奥羽越列藩同盟の中核である庄内藩の攻撃を受け、慶応四年(1868年)七月、新庄城は焼け落ちた。現在、新庄城は最上公園として整備され、市民の憩いの場となっている。公園内には新庄藩主戸沢氏を祀る戸沢神社や戸沢氏の氏神だった天満神社が建っている。公園の近くに藩校明倫堂跡が残る。 |