資福寺 |
(写真:資福寺跡)(写真右:伊達政宗(儀山)の墓) |
夏刈には伊達政宗の師である虎哉宗乙が寓居した資福寺があった。資福寺は鎌倉時代に置賜を統治した長井氏の三代目、長井時秀により弘安年間に創建された。建長寺と関係が深く、名僧を輩出し、関東十刹の一つに数えられた。長井氏を滅ぼした伊達氏も資福寺を深く信仰し、後に伊達氏とともに仙台に移り、伊達五山の一つとなった。資福寺跡には伊達儀山政宗と妻のものとされる墓もある(野手倉にも伊達儀山政宗の墓が見られる)。1572年伊達輝宗は叔父で東昌寺住職の大有康甫のもとに寓居していた名僧虎哉宗乙を嫡男政宗の師として招請し、資福寺の住持とした。そのため政宗はその幼少期を資福寺で過ごしたという。 |
(写真:非業の死を遂げた伊達輝宗の墓)(写真右:伊達輝宗に殉死した遠藤基信の墓) |
1585年政宗が二本松城の畠山義継と戦っていた際、既に隠居していた輝宗も福島の宮森城まで出陣していた。だが輝宗は和睦交渉に訪れた畠山義継の要望を蹴ったため義継に拉致された。駆けつけた政宗によって輝宗は畠山もろとも銃撃され、落命した。輝宗の遺骸は福島で荼毘に附され、資福寺に埋葬された。遠藤基信は伊達家宿老として政治外交面で輝宗を支えたが、輝宗の悲報に接して殉死した。1591年伊達政宗は岩出山に移ることになり、資福寺も伊達氏とともに移った。夏刈の資福寺は廃寺となり、寺の古鐘も政宗によって亀岡文殊に奉納された。今は非業の死を遂げた伊達輝宗と殉死した遠藤基信の墓がひっそり佇んでいる。 |