仙山鉄道
上白線に対して後から構想された仙山線の場合、二都市連絡の重要性から、より強力な敷設要望が行われた。また、官設だけでなく、私設で仙山線を建設しようとする動きもあった。大正10年4月19日に仙山鉄道が仙台〜秋保〜愛子の免許を、南奥州鉄道が愛子〜東根町の免許を得ている。大正12年4月14日には資本金550万で私設仙山鉄道の会社が創立された。折しも大正12年9月1日の関東大震災で官設仙山線の着工が望み薄になったので、この私設仙山鉄道が脚光を浴びることになったのである。10月20日、取締役の宮城の河内三九郎氏と山形の大江精一氏は鉄道省に施工着手認可促進の申請を行う。私設仙山鉄道は仙台〜神町を結ぶもので平沢〜神町間は工事が着手されようとするほどであった。また東根町の工藤尚三氏らの発起で東郷、高崎、山口、大富、小田島、長瀞、大石田といった東根町周辺の有志が集い「仙山鉄道促成後援会」を組織した。この会は仙山鉄道株式会社を後援し、神町〜仙台間の鉄道敷設を促進する目的とするもので、東根町の役場内に事務所が置かれた。こうして東根では地元の強力なバックアップができた。だが、官設仙山線の方も中止になった訳でなく大正14年度から着工されることが決まった。

官設仙山線は山寺を経由するルートをとり、東根はルートから外れることになったわけだが、今度は山形側の起点をめぐって争いが始まった。川合山形市長が市東部に停車場設置を求める陳情書を提出したことにより、長町分岐派(千歳、大郷、鈴川、出羽、金井)と東迂回派(山形、滝山、東沢、楯山)の争いが始まったのである。陳情書では千歳地区の長町を分岐点として停車場を設置する動きに対して「同地方は単純なる農民部落に止り(中略)発展すべき前途なく又其の余地なきことは洞察するに難しからざる次第」としたため、長町派も一小部落の文字で侮辱された報復として、東迂回派を土地の値上がりを狙う陰謀とののしった。双方泥仕合の陳情合戦が繰り広げられたものの、長町分岐の方向に動いた。すると今度は北山形駅(左沢線)に奥羽本線ホームを設置する山形市北部市民の要望と東山形駅を設置する山形市東南部市民の要望が対立。仙山線を南東に迂回させ東山形駅を設置して北山形に接続する案が出たが、財政的にも到底許容できるものではなかった。結局、長町には羽前千歳駅が設置されて仙山線の分岐点となり、北山形駅には奥羽本線のホームが設置されて現在の姿となったが、東山形駅を迂回する案は通らなかった。

参考文献『山形県議会八十年史 大正篇』『鉄道未成線跡を歩く私鉄編』