直江石堤(谷地河原堤)

直江兼続が築いた谷地河原堤直江石堤の碑

(写真左:直江兼続が築いた谷地河原堤)(写真右:直江石堤の碑)

龍師火帝の碑猿尾堰

(写真左:龍師火帝の碑)(写真右:猿尾堰)

上杉家が米沢に入部した際、松川上流の谷地河原は川底が浅く、流れが急なために氾濫すると米沢の中心部まで被害を及ぼすことがあった。このため兼続は原方衆など下級武士を動員して谷地河原に長い堤防を築いた。これを「谷地河原堤」といい、その後も改修を繰り返した。現在残るものは上杉治広時代に改築されたものである。後に兼続を称えて「直江石堤」と呼ばれるようになった。兼続は慶長年間に猿尾堰を築き、米沢の西を流れる堀立川に水を流した。松川と堀立川は農業用水としてだけでなく米沢の東西を守る防衛線としての役割も果たした。他にも木場川などを開削し、米沢の生活用水も整備した。また兼続は洪水や旱魃から人々が守られるよう水の神「龍師」と火の神「火帝」の加護を願って「龍師火帝」の四文字を線刻した大石を川の中央に据えて祈った。後にこの「龍師火帝の碑」は川の中から引き上げられ河川工事に伴い猿尾堰の傍に移された。