関川戊辰役激戦地跡

関川の戊辰戦争古戦場新政府軍は山越えで関川の庄内軍を奇襲した。

(写真左:関川の戊辰戦争古戦場)(写真右:新政府軍は山越えで関川の庄内軍を奇襲した。)

戊辰戦争において庄内藩は会津藩同様、新政府軍の討伐対象となった。だがこれに同情的な東北諸藩により奥羽越列藩同盟が成立し、庄内藩は周りの東北諸藩とともに新政府軍に抵抗した。しかし同盟諸藩は新政府軍の猛攻の前に敗北、降伏していき、庄内藩は孤立していった。新政府軍は越後長岡藩を攻略すると北上して主敵である庄内藩を攻撃。慶応四年八月二十三日、海岸沿いの鼠ヶ関口から新政府軍の攻撃開始。続いて二十六日出羽街道が通る小名部口の堀切峠で総攻撃が開始される。庄内藩側は小名部口を守りきるが、これに対して新政府軍は戦力を鼠ヶ関口に集めて総攻撃をかける。庄内藩は地の利を生かして鼠ヶ関を守りきったが、新政府軍は九月十一日、戦力を関川口に向けて雷峠を迂回して山越えで関川を急襲。関川は新政府軍に占領され、庄内藩は何度か奪回を試みたが成功せず、九月二十七日の庄内藩の謝罪に至った。この戦いは本州での戊辰戦争最後の激戦となり、関川は庄内藩で唯一新政府軍側に占領された地となった。庄内側は死者五十三名。関川は破壊と略奪により、以来極貧の生活を強いられたという。