鈴木清風邸跡・養泉寺 |
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(写真左:芭蕉清風歴史資料館。旧丸屋鈴木弥兵衛の屋敷を移築している。)(写真右:資料館の隣の鈴木清風邸跡。) (写真左:松尾芭蕉像。芭蕉は尾花沢に10日間も滞在したという。) (写真右:松尾芭蕉が宿泊した養泉寺には芭蕉の句碑「涼し塚」が残されている。) |
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尾花沢の芭蕉・清風歴史資料館は松尾芭蕉の弟子で芭蕉をもてなした鈴木清風宅跡の隣に建てられており、旧丸屋鈴木弥兵衛の店舗・母屋を移築している。鈴木清風は八右衛門、道祐ともいい、島田屋の三代目で紅花大尽ともいわれた豪商である。清風の人となりをあらわす逸話として次のようなものがある。 清風が江戸に紅花を運んだ際、江戸商人がつるんで清風の紅花の不買運動を起こして清風に紅花を投売りさせようと目論んだ。怒った清風は荷の紅花(かんな屑を染めた偽物)を燃やした。それで翌日から紅花の値段が高騰し、そこで清風は紅花を売って三万両儲けた。清風はこの金を「尋常の商売の金ではない」からと吉原を借り切って三日三晩吉原の大門を閉じて遊女を休ませたという。芭蕉もこのような清風を「かれは富める者なれども、志卑しからず」と評している。 芭蕉は元禄二年(1689年)五月十七日、尾花沢の清風のもとを訪れ、尾花沢で10日間という異例の長期滞在をしている。うち3日は清風宅、後半7日は商売で慌しい清風宅では休養できないだろうと、清風の配慮で養泉寺に泊まった。養泉寺は天台宗で元禄の頃は比叡山の直末寺として栄えていた。この養泉寺で芭蕉は句を詠み、境内に「涼し塚」として句碑が建てられている。 「涼しさを我宿にしてねまる也」 |