置賜桜回廊 |
(写真:烏帽子山八幡宮の大鳥居と枝垂桜。継ぎ目無しの石鳥居では日本一の大鳥居。) (写真左:赤湯温泉街から烏帽子山公園に登る御神坂。)(写真右:烏帽子山八幡宮の御神木、二代目放鳥目白桜。) (写真左:日本一の大鳥居の注連縄架け替え作業。)(写真右:烏帽子山の由来となった烏帽子石。磨崖碑である。) (写真左:烏帽子山公園の名物男「花咲か爺さん」)(写真右:烏帽子山公園の桜並木を行く) (写真左:烏帽子山公園。千本桜が咲きほこる。)(写真右:東正寺入口の枝垂桜) (写真:烏帽子山公園の夜桜) |
「置賜桜回廊」は南陽市、長井市、白鷹町の桜の名所を結んだもので南陽市の烏帽子山公園の千本桜、双松公園の眺陽桜、慶海桜、漆山の黄桜、長井市の久保の桜、下伊佐沢のかすみ桜、最上川堤防の千本桜、草岡の大明神桜、白兎のしだれ桜、白鷹町の釜の越桜、薬師桜、十二の桜、子守堂の桜、八乙女種蒔き桜などがある。 南陽市赤湯の烏帽子山公園は春になると千本桜が咲き乱れる桜の名所として知られ、桜の名所を結ぶ「置賜桜回廊」の名所の一つである。烏帽子山が公園として整備されたのは明治十九年に赤湯温泉の湯の山遊園として整備されてからである。赤湯の町が二年続けての大火に見舞われ、赤湯復興のために畑を買収し、多くの人々に呼びかけて当時のお金で三万円、人夫は四万人、そして十一年の歳月をかけてようやく公園が完成した。当初は偕楽園と呼ばれたが、後に烏帽子石に由来して烏帽子山公園になったという。烏帽子山という名前は境内にある巨大な磨崖碑、烏帽子石からきている。烏帽子石は赤湯七石の一つとされ、古文書には塩釜明神の使いが慈覚大師のもとに来て問答した後、塩釜に帰る際に烏帽子をかけた石とされている。烏帽子山を象徴する烏帽子山八幡宮はもとは赤湯北町にあり、明治二十三年烏帽子山公園の整備に合わせて現在地に遷座した。源義家(八幡太郎義家)が「後三年の役」で奥州平定に向かった際、義家の弟加茂次郎義綱が、赤湯で温泉を見つけ、祠を建てて武運長久を祈願したことが神社の起源とされる。八幡宮の石段には巨大な石鳥居がそびえたっている。この石鳥居は継目なしの石鳥居では日本一の大きさを誇る大鳥居で明治三十五年から三十六年にかけて八幡宮裏から切り出した凝灰岩を用いて製作建立したという。大鳥居の近くには八幡宮の御神木である放鳥目白桜がある。この桜は八幡宮の移転とともに植えられた二代目で初代の桜は旧八幡神社入口にあったが昭和三十年頃、枯れてしまったという。 |
(写真左:双松公園の「眺陽の桜」)(写真右:双松公園の「慶海の桜」) (写真左:双松公園のバラ園に咲く薔薇の花)(写真右:双松公園の由来になっている「妹背の松」) |
熊野大社の東にある双松公園はかつて慶海山館という山城があった場所に作られた眺望の良い公園である。双松公園は花の名所で春は眺陽桜、慶海桜が咲き、夏はバラ園で賑わっている。公園名の由来は公園内の「妹背の松」である。二本の松がくっつき夫婦相生に見立てられることから相生の松とも呼ばれるという。 |
(写真左:夜の「久保の桜」。坂上田村麻呂の伝説がある。)(写真右:最上川堤防の千本桜) |
長井市伊佐沢の「久保の桜」には坂上田村麻呂の伝説が残る。征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐をしていた頃、土地の豪族久保氏の娘お玉が田村麻呂に仕えたが、田村麻呂が帰国すると恋慕の情が募るあまりお玉は病にかかって亡くなった。これを知り、田村麻呂はお玉の墓に桜を植え、これが「久保の桜」になったという。樹齢約千二百年ともいわれる。長井市の最上川堤防沿いには春になると「最上川堤防の千本桜」が咲き誇る。 |
(写真左:伊達政宗の命を救った「草岡の大明神桜」)(写真:白兎の葉山神社にあるしだれ桜。) |
長井市草岡の「草岡の大明神桜」には伊達政宗が鮎貝城に出陣した際、鮎貝氏との戦いに敗れ、この桜の洞に隠れて難を逃れ、後に家臣を遣わして桜を守らせたという言い伝えがある。長井市白兎のしだれ桜は葉山神社境内にある。白兎という地名は1393年僧恵法律師が砂金の薬師如来を見つけ、白狐と白兎の導きで西山に登り、葉山神社を建てて祀ったため白兎の地名が生まれた。また白兎を神の使いとして大切に扱っている。 |
(写真左:あやめ公園のあやめ)(写真右:白つつじ公園の白つつじ) |
長井には桜以外にも花の公園が二つある。「あやめ公園」は明治四十三年、杉林の跡地に数十株のあやめが植えられたことに始まるという。あやめ公園には「長井古種」というここでしか見られない種もある。「白つつじ公園」は天明三年の飢饉に際して農民の救済事業としてつつじが植えられたのが「白つつじ公園」の始まりとされる。 |
(写真左:夜の「釜の越桜」)(写真右:坂上田村麻呂に由来する「薬師桜」) |
白鷹町高玉には有名な「釜の越桜」がある。釜の越は古い地名で源義家が当地に陣を置いたとき、この桜の樹の下にある三つの巨石で竈をつくり兵糧を炊いたことからつけられたという。「釜の越桜」から少し北の薬師堂そばに「薬師桜」がある。その由来は田村麻呂の笛の響きに引き寄せられた美しい娘が田村麻呂と結ばれ、黄金の太刀を産むが娘の正体は沼の大蛇であった。田村麻呂は大蛇を黄金の太刀で斬り殺したが、哀れに思い桜を植え「薬師桜」になったという。 |
(写真:白鷹町山口の「十二の桜」) |
白鷹の「十二の桜」は当地に薬師如来の信仰者を守る十二神の像を納めた十二神堂が建てられたことで十二という小字名がついたということによる。江戸末期から明治初期の間にその十二神堂は廃堂となり、十二神像は山際薬師堂に安置されている。「十二の桜」を植えた時期は鮎貝氏の祖である藤原安親が各地に薬師堂を建てた870年ほど昔のことではないかと推測されている。高玉の「薬師桜」や長井市伊佐沢の「久保の桜」も同じ樹種のエドヒガン桜であり、これらの桜や薬師信仰との関わりも興味深い。 |