左荒線 |
(写真左:改築後の荒砥駅。)(写真右:改築中の左沢駅。) |
大正11年4月23日左沢線全通。大正12年4月22日長井線全通。この時残った左沢〜東五百川〜荒砥の区間を左荒線と呼んだ。この区間は県議会でも木材・石材・養蚕・機織等沿線の資源開発と仙山線、今坂線(今泉〜坂町)の完成と合わせて仙台〜山形〜新潟を結ぶ陸羽越横断線を形成する目的から度々、敷設要望された。次に大正15年度の意見書の一部を紹介する。 「右長井線ハ荒砥駅ニ、左沢線ハ左沢駅ニ達シタルハ、沿線住民ノ欣喜措ク能ハサル所ナルモ未タ両駅僅カニ十六哩余ノ連絡ヲ見ルニ至ラサルハ誠ニ遺憾トスル所ニ有之候。而シテ該区間ノ西方朝日山脈ハ、古来斧鉞ヲ入レサル大森林ニシテ、無限ノ木材、石材ヲ産シ又沿線ノ村落ハ蚕繭ノ生産頗ル豊富ニシテ之ヲ他ニ輸出シ、更ニ副業トシテ機織ノ業盛ナル地方ナルモ唯一県道ノ外運輸機関備ハラサルカ為メ、無限ノ宝庫徒ニ埋没スルノ状況ナルヲ以テ本鉄道ノ連絡ニ依リ置賜及村山地方ノ交通運転ヲ円滑ナラシメ、物資ノ利源ヲ開発シ、地方産業ノ興隆ヲ促進スル等必要ナル鉄道ト確信シ、従テ仙山、今坂両鉄道ノ完成ト相俟テ陸羽越横断線ノ一大幹線トナルベキモノト思考候条速カニ連絡ノ計画ヲ確立セラレ度候。」 その後も陳情は繰り返され、昭和15年完成と決定した。だが、戦争のため敷設計画は休止。戦後も着工のめどが立たず、左荒線期成同盟会を中心に復活運動が展開された。また目的も陸羽越横断線から内陸循環線を目指すものへと変化した。しかし母体となる左沢線、長井線も利用客が減少、経営悪化し、ついに長井線は昭和63年10月25日「山形鉄道フラワー長井線」として第三セクター会社に移管された。さらに、内陸循環線の構想自体が奥羽本線のミニ新幹線化による標準軌化で実現不可能となり、運動を展開していた団体も1996年解散。こうして左荒線開通の悲願は叶わずに終わった。 参考文献『山形県議会八十年史 大正篇』『山形県大百科事典』 |