鮭延城

真室川町の内町にある鮭延城の登口。かつての搦手門跡。鮭延城大手門跡

(写真左:真室川町内町にある鮭延城の登口。かつての搦手門跡。)(写真右:鮭延城大手門跡。)

本丸跡に建つ鮭延城址の碑鮭延城址から真室川を見渡す。城址の麓を奥羽線が走り抜ける。

(写真左:本丸跡に建つ鮭延城址の碑。)(写真右:鮭延城址から真室川を見渡す。城址の麓を奥羽線が走り抜ける。)

鮭延城は真室城ともいい、戦国時代に鮭延氏が築いた山城である。鮭延氏はもともと佐々木氏といい、近江国から仙北に移って横手城の小野寺氏の客将となった。佐々木氏は小野寺氏南進の先鋒として最上郡に送り込まれ、はじめ最上川沿いの岩花城(戸沢村)に拠点を置いたが、永禄二年(1563年)佐々木貞綱は上杉謙信を後ろ盾に庄内から侵攻してきた大宝寺義増に敗れて後退。これより鮭延城を本拠とするようになり、鮭延氏を称した。天正九年(1581年)出羽統一を目論む山形城の最上義光が当地を攻略し、鮭延秀綱も抗戦したが、義光の計略で家臣の庭月氏らが寝返り、以後義光に従った。鮭延秀綱は智勇兼備の将で庄内攻略戦で活躍するなど最上家中で頭角をあらわし、湯沢城(秋田県湯沢市)在番も務めた。1600年の慶長出羽合戦では長谷堂城を包囲する直江兼続の大軍に襲い掛かり、直江兼続本陣を脅かし、直江に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめたという。最上家親急死後の最上家臣団の争いでは楯岡光直とともに義光の四男義忠を当主に推したが、家臣団の争いが収まらず元和八年(1622年)最上氏改易となり、秀綱もこの地を去り、土井利勝に預けられた。秀綱の家臣達は乞食をしてでも主を養うと言い、日頃家臣を大切にした秀綱のもとを離れず感激した土井利勝が遂に秀綱を家臣として召抱えたという。鮭延氏後、当地には戸沢政盛が移封され、はじめ鮭延城に入って統治したが、1625年新庄城(新庄市)を築城して移り、鮭延城は廃城となった。