寒河江城

寒河江城跡の碑。寒河江小学校の側に建っている。

(写真:寒河江城跡の碑。寒河江小学校の側に建っている。)

寒河江城は鎌倉幕府政所別当大江広元が寒河江荘を与えられ、嫡男大江親広が寒河江に居館を構えたのが始まりとなっている。大江氏は南北朝時代、南朝方で山形の斯波(最上)氏と対立したが漆川の戦いで敗北し、時氏の代で北朝に降った。大江時氏は寒河江城を修築して三重の堀をもつ大きな平城とした。大江氏は最上川西部に一族を配し、川西八万石を領する勢力となった。しかし天正十二年(1584年)出羽統一を目指す山形城の最上義光に対抗し得る存在だった谷地の白鳥十郎長久が最上義光の謀略により山形城で謀殺された。白鳥は大江氏の姻戚で、大江高基は弟の柴橋勘十郎頼綱に白鳥の旧臣を率いさせて最上義光に挑むが、頼綱は義光の計略で誘い込まれたところを鉄砲で討ち取られた。当主大江高基は実家のある西川町吉川に逃げようとするが、逃げ切れず大江町貫見の御楯山上まで逃げ、そこで一族郎党が自刃して大江氏は滅亡した。その後、大江氏一族で最上義光に降った寒河江肥前の城となったが、義光の死去に際して肥前は殉死し、寒河江城は空城となった。1622年最上氏が改易となり、鳥居忠政が山形藩主となると残されていた寒河江城も破壊され、廃城となった。