幸生銅山・永松銅山

幸生銅山で働いた人々の墓幸生銅山の北にある寒河江市と大蔵村の境、十部一峠。ここから林道を谷底に降りていくと永松銅山がある。

(写真左:幸生銅山で働いた人々の墓)

(写真右:幸生銅山の北にある寒河江市と大蔵村の境、十部一峠。ここから林道を谷底に降りていくと永松銅山がある。)

寒河江市と大蔵村の境に十部一峠がある。この十部一は十分一からきており、峠に番所を置き、十分一役銀を徴収したことに由来する。十分一は鉱山に関連した地名で、南の寒河江市側には幸生銅山、北の大蔵村側には永松銅山が峠を挟むように栄えていた。幸生銅山は天和二年(1682年)に開かれ、泉屋(のちの住友)が経営した。永松銅山は1617年ごろの発見という。明治になると幸生、永松両銅山に古河鉱業の資本が入った。明治の幸生銅山では永岡鶴蔵を中心とするストライキなどがあった。また幸生銅山は永松銅山の支山となった。永松銅山は大蔵村に属したが、冬期は大蔵村との交通手段は無くなり、道が整備された寒河江の幸生との関係が強かった。また両鉱山間にはリフトが設置され、輸送が行われていた。山形県の重要な鉱山として栄えたが、昭和三十六年に休山となり、そのまま閉山された。