新潟大学六花寮 |
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平成三年から平成七年まで私は新潟大学で中国史を勉強していました。その中国関連の話については私のホームページ「五胡興亡史」をご覧いただきたいと思います。 さて新潟といえば信濃川の河口に栄えた港町。露西亜人もやってくる諸外国との窓口です。この辺りは古代には渟足柵が置かれ、朝廷が北進する拠点でありました。その後も蒲原津や沼垂といった港町が生まれて栄えておりましたが、流れ込む信濃川と阿賀野川の流れが変わる度に町が侵食され、港が遠浅になり、発展と衰退を繰り返しておりました。新潟の地名は上杉謙信のころから歴史に見え始めます。上杉景勝と新発田重家の戦いでは争奪の舞台となった要衝の地です。新潟の本格的な開発は長岡藩主となった堀直寄によって始められ、江戸時代には北前船の寄港地として対岸の沼垂とライバル関係でありました。その後、幕末に外国に開港されて発展したことはよく知られております。 明治以降、日本海側有数の港湾都市として発展した新潟には外国人も増え、異国情緒も漂わせるようになります。そんな中でこの地に新潟大学ができ、弊衣破帽の学生達が集う六花寮も生まれます。当初、六花寮は新潟の繁華街古町から日銀新潟支店前を経由して真っ直ぐ西へ進んだ場所にある坂の上にありました。その坂は寮生が古町へと遊びに行くのに使われたため、あんまり通ると留年する、つまり「だぶる」、また二重を表すのドイツ語の「ドッペル」にかけられて「どっぺり坂」と呼ばれました。昭和四十年頃、六花寮は現在の新潟市関屋に移ります。 |
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私は大学生活の四年間をその新潟大学六花寮ですごすことになりました。 |