大里峠

越後街道   越後街道
 

 
  飯豊山  
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玉川の集落にある大里峠への道の入口。わかぶな高原スキー場近くにある大里峠新潟側入口。
大蛇により

玉川は小さな集落であるが小国町の南部地区の中心地で越後街道の重要な宿場であった。川内芳夫著『良寛』によれば良寛の「玉川駅旅宿」の詩は庄内の玉川寺ではなく、この玉川で詠まれたものという。川内氏によれば良寛は「米沢道中」の詩も詠んでおり、上杉鷹山に会うために米沢に向かったのではないかということである。
玉川の集落から十三峠の一つ大里峠へ向かう道がある。玉川は山形県内最後の宿場で、大里峠の先は新潟県である。車では途中までしか行けない。この大里峠は1521年伊達稙宗が越後への交通路を確保するため開削したものである。のちに伊達稙宗の曾孫、独眼龍伊達政宗が1590年小田原参陣のため、この峠道を越えている。
大里峠には次のような伝説が伝えられている。関川村にある女川の蛇喰に忠蔵、おりのという夫婦がいた。忠蔵はある日大蛇に襲われたが、逆にこれを仕留めて味噌漬にして樽にしまった。忠蔵の樽を覗くなという言い付けを破っておりのは樽の蛇の味噌漬をみな食べてしまった。するとおりのは喉が渇いて川で水を飲み始め、気付くと大蛇に変身していた。おりのはそのまま姿をくらまし、何年も過ぎていった。
ある晩、蒲原の赤塚生まれの検校、琵琶法師の蔵の市という座頭が故郷に帰る途中で大里峠にさしかかり、峠の祠で琵琶を奏でていると女が現れ、琵琶をひいてくれと頼んだ。蔵の市が琵琶をひき、女の身の上を尋ねると女はおりのと名乗り、自分が大蛇に変えられたことを話した。そして身体が大きくなったので荒川をせき止めて下関一帯を湖に沈め、自分の住処にする計画を打ち明けた。おりのは他言すれば蔵の市の命は無いものと脅して姿を消した。だが蔵の市はこれを村人に急いで知らせた。そのため蔵の市は息絶えて消えてしまい琵琶と笠と杖だけが残されたという。蔵の市は最後に大蛇は鉄を嫌うと言い残したので村人は大里峠一帯に村中の鉄を集めてつくった釘を打ち付けた。すると大蛇は苦しみ始め、七日七晩悶え苦しんだ末に息絶えた。こうして村は守られたという。
越後街道は大里峠を越えて関川村のわかぶな高原スキー場の近くに下りてくる。さらに沼の集落から荒川の南の榎峠を越えて越後下関に向かう榎峠は戊辰戦争の戦場で米沢藩兵が新政府軍の攻撃で戦死している。
(参考)「十三峠」
かつて置賜から越後へ向う街道を越後街道と呼んだ(越後では米沢街道と呼んだ)。現在の国道113号線のルートは明治になって鬼県令三島通庸が1885年に整備した「小国新道」で、江戸時代は米沢を出発して小松(川西町)‐松原‐手ノ子(飯豊町)‐沼沢‐白子沢‐市野々‐黒沢‐小国‐足野水‐玉川(小国町)と経て、越後国(新潟県)に至る街道であった。この街道は峠が多く、まとめて十三峠と呼ばれていた。現在は道路改良などで十三峠のうち、小さな峠は確認できなくなっている。

 

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