大石田河岸

大石田大橋上流は白壁の塀蔵風に再現がなされている。このあたりが大石田河岸であった。白壁の塀蔵の反対側には大石田の船役所跡がある。

(写真左:大石田大橋上流は白壁の塀蔵風に再現がなされている。このあたりが大石田河岸であった。)

(写真右:白壁の塀蔵の反対側には大石田の船役所跡がある。)

最上川の大石田河岸は延文元年(1356年)に始まったという。天正八年(1580年)最上義光が最上川三難所を開削し、最上川舟運が発達すると大石田は中継河岸として大いに発展した。寛永年間には延沢銀山の隆盛もあり、最上川舟運はさらに発展した。最上川舟運は年貢米のほか、紅花・青苧などの特産物を運び、また上方からの品々を持ち帰った。大石田はこのような荷物の集散地として繁栄した。このため上方の文化も多く入っていた。寛政四年(1792年)には大石田川舟役所を設けて幕府が舟運の統制を図った。川舟役所は明治五年まで続いた。江戸時代は「ひらた舟」が主に用いられたが、明治時代は幅の狭い「小鵜飼舟」が用いられた。小鵜飼舟は元禄年間に上杉藩で用いられるようになった小型で速く、小回りのきく舟であった。このため主に急流の多い最上川上流域で使われていた。しかし明治三十四年(1901年)大石田まで鉄道が開通し、その後陸羽西線が酒田まで開通すると最上川舟運は役割を終えることになった。なお大石田は歌人斎藤茂吉が晩年を過ごした場所でもあり、乗船寺には茂吉の墓もある。元禄二年(1689年)松尾芭蕉も大石田で門人高野一栄の舟宿を訪れて最上川の句を詠んでいるが、この後に芭蕉は乗船して最上川の勢いを実感し「奥の細道」では「涼し」が「早し」に直されている。

「五月雨を 集めて涼し 最上川」

大石田大橋の下流堤防はかつて大石田が繁栄した頃を思い起こさせる白壁の塀風に描かれている。

(写真:大石田大橋の下流堤防はかつて大石田が繁栄した頃を思い起こさせる白壁の塀風に描かれている。)