大日寺跡

大日寺跡の仁王門。現存する建物はこの仁王門と湯殿山神社となった山王堂、稲荷神社となった鐘楼の三つである。大日寺跡の湯殿山神社。もとは山王堂の建物であるが、火災後、かつて本堂があった場所に遷された。

(写真左:大日寺跡の仁王門。現存する建物はこの仁王門と湯殿山神社となった山王堂、稲荷神社となった鐘楼の三つである。)

(写真右:大日寺跡の湯殿山神社。もとは山王堂の建物であるが、火災後、かつて本堂があった場所に遷された。)

大日寺跡の稲荷神社。元は鐘楼だった。応永年間に大日寺を再興し、道路整備にも尽力した道智上人の座像。享保の中頃、建立された。

(写真左:大日寺跡の稲荷神社。元は鐘楼だった。)

(写真右:応永年間に大日寺を再興し、道路整備にも尽力した道智上人の座像。享保の中頃、建立された。)

西川町大井沢にはかつて金色山大日寺という大寺院があった。大日寺は弘法大師が天長年間(824〜833)に湯殿山を開いた際に創設したとされ、本道寺や大日坊、注連寺と同時期の開基と考えられている。応永二年(1395年)頃、中興の祖とされる道智上人が大日寺を再興し、置賜方面からの湯殿山参詣者のために白鷹町の茎の峰峠から木川、古寺を越えて大井沢に至る「道智通り」という新道を整備した。江戸時代には湯殿山別当四寺の一つとなり、繁栄した。日本七大霊場の一つにまで数えられ、大井沢は白衣の行者で埋め尽くされた。だが大日寺も明治の神仏分離令によって明治七年に寺号を返上することになり、湯殿山神社となった。ところが明治三十六年(1904年)の失火で仁王門、山王堂、鐘楼を残して焼失し、大日寺の由緒ある建物の多くは失われたのである。