越後街道(十三峠)

米沢藩内街道の一里塚の基点になった米沢大町札の辻。飯豊と小国の境、宇津峠。奥は旧宇津トンネル。

(写真左:米沢藩内街道の一里塚の基点になった米沢大町札の辻。)(写真右:飯豊と小国の境、宇津峠。奥は旧宇津トンネル。)

市野々と黒沢を結ぶ黒沢峠の敷石道。1775年に整備された。片洞門。昭和40年まで使われていた難所。

(写真左:市野々と黒沢を結ぶ黒沢峠の敷石道。1775年に整備された。)(写真右:片洞門。昭和40年まで使われていた難所。)

 

712年創始の大宮子易両神社。古代にはこの辺りから沖庭山を越えて越後金丸へ出たという。横根山を登り、朴ノ木峠から眺めた小国。

(写真左:712年創始の大宮子易両神社。古代にはこの辺りから沖庭山を越えて越後金丸へ出たという。)

(写真右:横根山を登り、朴ノ木峠から眺めた小国。)

玉川の集落にある大里峠への入口。小国新道沿いの紅葉の名所「赤芝峡」

(写真左:玉川の集落にある大里峠への入口。)(写真右:小国新道沿いの紅葉の名所「赤芝峡」)

越後下関にある豪商、渡辺家の邸宅。上杉鷹山の改革もここからの借金が無くては難しかった。道の駅の「桂の関由来碑」。越後と出羽を結ぶ交通の要衝で三潴氏が関を守った。

(写真左:越後下関にある豪商、渡辺家の邸宅。上杉鷹山の改革もここからの借金が無くては難しかった。)

(写真右:道の駅の「桂の関由来碑」。越後と出羽を結ぶ交通の要衝で三潴氏が関を守った。)

米沢から越後へ向う街道を越後街道と呼んでいた(越後では米沢街道と呼んだ)。米沢における街道の基点は「大町札の辻」で米沢城大手門に通じる重要な十字路でもあり、目立つ場所のため藩や幕府の命令が掲げられた高札場が設置されたため「札の辻」と呼ばれた。米沢を出発して小松(川西町)‐松原‐手ノ子(飯豊町)‐沼沢‐白子沢‐市野々‐黒沢‐小国‐足野水‐玉川(小国町)と経て、越後国(新潟県)に至る道であった。街道は峠が多く、まとめて「十三峠」と呼ばれていた。現在は道路改良などで十三峠のうち、小さな峠は確認できなくなっている。宇津峠は十三峠でも最大の峠で飯豊町と小国町の境であり、最上川水系と荒川水系の分水嶺でもある。小国町に入り、白子沢から桜峠を越えると市野々に至るが、今は市野々宿は無い。一帯は横川ダムの建設により移転となっている。市野々と黒沢の間にある黒沢峠は十三峠の一つで江戸時代の1775年に改修され、3km余の敷石道が残されている。黒沢からは横川沿いに小国へ向かう。沼沢から小国に向かうルートは明治になって桜川渓谷沿いに下り、伊佐領から横川沿いに小国へ向かうルートに変わる。「鬼県令」「土木県令」といわれた山形県令三島通庸の命により明治16年、桜川渓谷の断崖絶壁の岩盤を開削して「片洞門」がつくられた。片側のみのトンネルのようになっており、昭和40年まで使用されていた国道沿い一の難所である。昭和8年にはトラックの転落事故があったが、運転手と助手は怪我も無く助かり、車も破損せず引き揚げられたことから観音様のおかげであるとして観世音菩薩が安置された。小国は江戸時代に米沢藩の防衛の要、御役屋が置かれた重要な場所で御役屋以前には小国城が置かれた。小国城は奥州藤原氏の一族樋爪俊衡が平安時代に築いたのが始まりとされる。伊達氏が置賜を支配するようになると小国は上郡山氏が入り、蒲生氏郷が入部すると佐久間盛次、上杉景勝が入部すると松本助義が小国城に入った。小国の歴史はさらに古く712年創始という大宮子易両神社があり、安産・子育て・子授けの神として信仰されている。大宮子易両神社から西へ進み、荒川を渡って小国と越後の境にそびえる沖庭山の山頂に登ると沖庭神社がある。こちらは7世紀ごろ大和朝廷の東北経営のために置かれたという。戦国時代に伊達氏が大里峠を開削して越後街道の原型ができるまで、この沖庭山を越えて越後金丸に出て荒川沿いに下る街道が使われていた。越後街道の方は横根山を登り、朴ノ木峠に至る。朴ノ木峠は眺望が良く、林道も整備されているため車で行くことができる。峠を越えると足野水に一旦下り、再び萱野峠を越えて玉川の集落へと向う。玉川からは大里峠を越えて越後に入る。大里峠は1521年伊達稙宗が越後への交通路を確保するため開削したものである。稙宗の母は越後上杉家の出身で、また稙宗は子の実元を越後上杉家の養子にしようとしたが、稙宗の長男晴宗はこれに反対し、稙宗を幽閉した。これを機に天文の乱が勃発し、奥羽の諸氏を巻き込んだ大乱となった。のちに伊達稙宗の曾孫、独眼龍こと伊達政宗は1590年小田原参陣のため、この峠道を越えて越後経由で小田原に向かった。明治になると鬼県令と呼ばれた山形県令三島通庸は1885年新潟県に向かう「小国新道」を建設する際、越後街道の大里峠など十三峠の山越えルートは使わず荒川の渓谷沿いに道路を建設した。その途中荒川と横川の合流点から荒川と玉川の合流点にかけての渓谷は「赤芝峡」と呼ばれ、紅葉の名所となっている。越後街道は新潟県関川村の下関に至る。下関の地は越後と出羽を結ぶ交通の要衝で奥山荘という荘園が成立した頃には桂の関という関所が設けられた。鎌倉幕府は筑後国の三潴荘の武士、三潴左衛門尉を関所の役人に任命し、以来三潴氏がこの地で関吏を勤めたという。下関には越後の豪農の邸宅「渡辺邸」がある。上杉家はもともと越後の大名で越後との繋がりが深く、米沢藩はこの下関の渡辺家から十万両を超える借金をしており、上杉鷹山の藩政改革も渡辺家の協力無くしては有り得なかった。そういう意味で越後街道、十三峠は米沢藩の生命線だったのである。