上杉憲政の墓

関東管領上杉憲政の墓

写真:照陽寺にある関東管領上杉憲政の墓)

米沢の照陽寺には関東管領上杉憲政の墓がある。天文二十一年(1552年)上杉憲政は長年、関東をめぐって争った北条氏康に敗れて居城平井城を追われた。その際、憲政は嫡子龍若丸が寝返った家臣により北条方に引き渡され氏康に殺されたというが、これは当時の風説をもとにした後世の創作ともいわれる。弘治三年(1557年)上野国内での抵抗を続けていた憲政は追い込まれ、やむなく越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。憲政は景虎を養子として協力を仰いだ。永禄三年(1560年)長尾景虎に奉じられて関東に進撃し、関東の諸将を集めて北条方の城を攻略していった。しかし北条氏康は小田原城に籠城して長期戦に持ち込んだため攻めきれずに撤退に追い込まれた。この戦いの際、永禄四年(1561年)鎌倉鶴岡八幡宮にて憲政は長尾景虎に上杉姓と関東管領を譲って上杉政虎と名乗らせ、自身は隠居した。こうして上杉家は上杉政虎こと上杉謙信に引き継がれるのだが、憲政自身は越後府内の御館で謙信の庇護を受けて暮らしていた。しかし天正六年(1578年)謙信が亡くなり、謙信の養子である景勝(長尾政景と謙信の姉仙桃院の子)と景虎(北条氏康の子)の跡目争いが始まる。本丸や金蔵を抑えて文書を発給するなど事実上謙信の跡を継いだ景勝に対し、景虎は三の丸に籠って景勝に対抗したが、三の丸を攻められて憲政のいた御館に移り、以後ここを拠点に景勝と戦った。このため「御館の乱」と呼ばれる。景虎は実家の北条氏政や甲斐の武田勝頼に呼びかけて援軍を得て、さらに米沢の伊達輝宗、会津の蘆名盛氏、庄内の武藤義氏も景虎に助勢し、景勝は窮地に陥った。景勝は武田勝頼に和睦交渉を要請し、景虎方との和議を図ったが不調に終わる。景勝は勝頼に謝礼を贈り、勝頼の妹菊姫を妻に迎え、上野国の割譲も申し入れたので武田勝頼は上杉景勝との同盟に転じた。上杉方は斎藤朝信、武田方は高坂昌信や武田信豊を窓口に交渉が進められて同盟が成立。これを機に戦局は景勝有利に転じ、北条氏政も景虎のために援軍を出したが冬の到来とともに撤兵。上杉景信や北条景広など景虎方の諸将も次第に討ち取られ、景虎は追い詰められた。ここにおいて御館の主である上杉憲政は慌てて景勝との和議を求めて景虎の子道満丸を連れて御館を脱出するが既に景勝方は御館を包囲しており、四ツ屋にて景勝方の兵に囲まれて自刃したという。道満丸は景勝の兵に殺害されたというが、市川信房に保護されて生き延びたともいわれる。御館は景勝の攻撃で落城し、景虎は越後からの脱出を図って鮫ヶ尾城に入るが城主の堀江宗親は既に景勝方に通じており、堀江が城に火を放って退去したため、景虎夫妻は自刃したという。こうして「御館の乱」は終結した。憲政の子憲藤、憲景、憲重は御館の乱で死亡したとされ、憲重の子憲国が子孫を伝えた。なお直江兼続が御館の乱で謙信の遺言を偽造して景勝に跡を継がせたという説があるが、兼続が景勝の側近として頭角を現してくるのは天正八年で御館の乱以降のことである。