延沢城

延沢城址登り口。常盤中学校の西側から登っていく。

(写真:延沢城址登り口。常盤中学校の西側から登っていく。)

延沢城は野辺沢城とも書き、別名を霧山城ともいう。延沢氏の前に日野氏が居城したともいうが定かでない。天文十六年(1547年)延沢薩摩守満重が築城したともいう。二代目延沢能登守満延は強力無双の武将として知られ、天童氏を盟主とするの最上八楯の旗頭として最上義光を苦しめたが、息子光昌の嫁に義光の娘をもらい、義光のもとに帰参した。これをきっかけに天童頼久は敗北し、満延は義光に頼久の助命を嘆願したため、天童頼久は見逃されて関山峠を越えて落ち延び伊達政宗に仕えることになった。三代目延沢遠江守光昌は義光の娘婿となり、1600年の慶長出羽合戦で活躍したが、元和八年(1622年)主家最上氏改易により延沢氏も改易となった。延沢城は寛文七年(1667年)幕府によって廃城となった。延沢氏が強盛を誇った背景には延沢銀山を支配していたことも背景にある。そのため昭和六十年には延沢銀山遺跡の一つとして国指定史跡となった。また延沢の地は仙台に抜ける軽井沢越が通る交通の要衝でもあった。