錦氏のルーツを考える |
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私の苗字「錦」は南陽市赤湯に数軒見られる。電話帳を見た限りでは他に置賜・村山など周辺地域には見られず、明治以前から赤湯にいるので赤湯独特のものかとも思われる。しかし宮城県七ヶ宿町にも錦という苗字があるので交流があった可能性もある。赤湯の東正寺がかつて焼失し、過去帳も失せたため当錦家が何処から来たのかは分からない(残った墓石から天保年間には既に東正寺に墓があり赤湯に居たことが推測される)。だが広く全国を見渡せば相当数の錦家が見受けられ、錦に関する姓はさらに多い。そこで「錦」に関する姓の氏族由来を調べ、錦関連の苗字がどのように広がったのかを探ろうと思う。 |
三善氏は渡来人系錦氏 |
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錦(にしき)は錦部(にしきべ)に通じるという見方もある。即ち、渡来人の倭漢氏(やまとのあやし)に属し、近江滋賀郡錦部郷、浅井郡錦織郷などに根拠を置いた氏族で、阿智王(後漢霊帝の子孫、百済から日本に帰化、坂上田村麻呂の祖とされる)に随い帰化した随従漢人の一つという。錦部村主は韓国人波努志(波能志)より出づるともされ、また錦部村主薬麻呂等について「後漢献帝苗裔」と三国志に登場する献帝の子孫とされていた。また正倉院文書に近江国の人として錦村主特万呂らの名前が出ており、別文書で浅井郡人錦村主清常刀自に位二階を叙したということも出ているようである。また浅井郡の人錦曰佐周與蒲生郡の人錦曰佐名吉等に志賀忌寸を賜ったということもあったようである(曰佐はおさで通訳の意)。渡来人としては河内国錦部郡や若江郡錦部郷にも錦・錦部に関する一族が多く、百済族で錦部連を称した。錦部連乙麻呂や錦部連安宗、錦部連三宗麻呂などの名が見られる。錦部連のうち錦宿禰(錦部宿禰)を賜る者もあり、貞元二年、三善朝臣を賜る。三善氏は漢の東海王の後裔とも、百済の速古王(近肖古王)の末裔ともいわれる。姓氏類別大観によると後漢霊帝の子が献帝、その子が東海王でその四代後が波能志でこの子孫が浅井氏、錦部氏、錦織氏とされる。三善氏を称するようになった後も、旧姓の錦氏を称したようで三善清行の子が左大史を勤めた錦良助でその子が錦連行とされる。三善氏の人物として三善清継の娘で坂上田村麻呂の妻の高子、菅原道真に辞職勧告した学者で醍醐天皇に仕えて「延喜の治」を主導した宰相三善清行とその子浄蔵(京都一条戻橋の由来で知られる)、算博士として活躍した三善為長とその後継者三善為康、鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信、越後三善氏の三善為教の娘で親鸞の妻の恵心尼などがいる。三善康信の子孫町野氏は近江国蒲生郡町野から苗字をとったらしく「欄干輪に違い鷹の羽」を家紋としているという。蒲生といえば戦国大名蒲生氏郷が近江国蒲生から伊勢国松阪に移り、最後に会津と米沢を領有したことを考えると三重県に錦氏が多いということで蒲生と一緒に米沢に来たものか。ところが能登鳳至郡町野庄の地頭になった三善氏が後に町野氏を称するようになった説もあり、あるいは越中越後の三善氏との関係も考えられる。三善為康は越中射水の出で、末裔の越中豪族三善一守(小浦山城主で小浦一守も称する)は能登畠山氏に仕え、上杉謙信に仕えて子の内匠を人質に出したという。一守はその後、佐々氏、堀氏に仕えて最後は能登に移住し、松原氏に改姓して子孫が前田家に仕えたという。上杉に人質を出したこともあり、上杉家に残った一族が錦氏を称して移住したことも考えられる。 | |
賀茂神社の氏人、物部氏流錦部氏 |
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山城国愛宕郡錦部郷の稲置として錦部首が見え、山城錦部の伴造とされる。この系統は「物部目大連の後」とされ、物部氏族であるがなぜ錦部と関わるようになったかは詳らかでないという。ただ同地錦部郷は上賀茂神社の社領であり、上賀茂神社の社家、氏人として錦部(にしごり)家があった。錦部家の旧宅は現在も西村家として残っているという。この賀茂神社というのが実は赤湯と関係がある。赤湯の烏帽子山八幡宮、即ち八幡神社は1093年源義家の弟加茂次郎義綱が建てたもので、この加茂次郎義綱が賀茂神社神前で元服している。1091年既に兄の八幡太郎義家と対立しており、後には兄義家に討たれている。弟新羅三郎義光も新羅明神で元服しており、源氏だから氏神の八幡神社とは限らない状況になっていた。義家が奥羽で戦っている時期にやたら八幡神社を勧請したのも、一族の統合を図る狙いだったという説がある。ただ赤湯の八幡神社は弟の加茂次郎義綱によるものであるから賀茂神社の流れが入ってきたとも考えられる。あるいは賀茂神社の氏人錦部氏を赤湯に連れてきたということも考えられなくは無い。 | |
楠木正成に仕えた忠臣か?清和源氏流錦織氏 |
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錦は「にしごり」とも称し、錦織(にしごり・にしきおり)にも通じる。前九年の役で活躍した清和源氏の源頼義は近江国滋賀郡錦織庄で亡くなり、三男の新羅三郎義光の子孫、山本冠者義経の子が錦織冠者義高を称し、木曽義仲の入京の際、後白河法皇の警護をしている。この子孫として『江源武鑑』では天文七年錦織民部少輔常義に志賀郡千貫の地を賜うということが述べられ、佐々木氏代々の印章あるを以って浦奉行とすともあり、錦織氏は近江源氏佐々木氏と深いつながりがあったらしい。また河内の錦織氏も同系統を称し、楠木正成に仕え、笠置山挙兵で錦織判官代俊政と子義右らが六波羅軍と戦い壮絶な自害を遂げたとされる。また戦国時代の錦織氏では錦織即休斎が伊達政宗の近侍として活躍している。当錦家家紋には近江源氏の四つ目結が入っているため、この錦織氏との関係も気になる。楠木正成は出羽国屋代荘(高畠町付近)の地頭でもあり、錦織氏も配下として置賜に送り込まれたものか?ならば南朝方勢力であり、後に置賜を領し、奥羽を席巻した伊達氏の家臣に錦織氏が入ってくることも考えられるのである。 | |
出羽に逃れたか?奥州藤原氏流錦戸氏 |
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錦と錦部が通じるということは錦戸(にしきど・にしきべ)ともつながる。錦戸氏は奥州藤原氏に連なり、藤原秀衡の長男が西木戸(錦戸)太郎国衡、六男が錦戸太郎頼衡という。ただし錦戸頼衡は記載されてない系図も多いらしく、一部で文治5年2月15日に秀衡の次男伊達次郎藤原泰衡に誅されたという話のほかは出羽国置賜郡米沢の錦戸薬師堂の由来に頼衡が輿に奉安し、鳥越を越えて守本尊の薬師像を当地に運んだ伝が残るくらいのようだ。なお西木戸太郎国衡が阿津賀志山の戦いで鳥取越を奪われて源頼朝の軍に敗れ、僧に守本尊の薬師像を託して僧が当地に庵を結んだという話もある。国衡当人は大関山を越えて出羽に逃れる途中で和田義盛と戦い、討たれたという。これらの話から、国衡と頼衡は同一人物で頼衡の伝は国衡のものから派生したとも思える。また藤原泰衡も秋田で討たれ、その遺体を埋葬した場所に錦神社が建ち、夫人が亡くなった場所に西木戸神社が建つという。『語伝仙北次第』に「頼朝公、西木戸一門を破り候」とあり、奥州藤原氏自体を錦戸(西木戸)一門ととらえたため、泰衡に関することも錦・西木戸の名がついたものであろうか。しかし錦戸の名称はどこからきたのか。平泉の西の守りともいうが本当に地名であろうか?藤原秀衡の妻は近江国住人佐々木源三秀義のおばで、後妻が藤原基成の娘という。基成の娘が泰衡・忠衡の母で、錦戸太郎国衡は庶兄であったため、次男泰衡が継いだというから、国衡の母が近江源氏佐々木氏の出とも考えられる。このように仮定すると錦戸(にしきど・にしきべ)の名称は近江から奥州藤原氏と佐々木氏の血を引く錦戸国衡に伝来したとなり、近江源氏の四つ目結と蔦を組み合わせた当錦家家紋と関わる可能性も出て、面白いことになる。少なくとも置賜は藤原秀衡の従弟の樋爪季衡が高畠城を築き、その子新田冠者経衡が米沢舘山城を築いたことからも藤原氏と関係があり奥州藤原氏滅亡後も関係者が生き残ったものと思われるのである。 | |
神武天皇と戦う丹敷(にしき) |
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錦(にしき)は即ち二色(にしき)、丹敷(にしき)に通じるという。丹敷は紀伊の大族で古の志摩国英虞郡二色郷、後の紀伊国牟婁郡長島郷錦浦の地にあり、丹敷戸畔は神武天皇と戦い敗れたという。のちに成務天皇の時代に丹敷の辺りに熊野国造が置かれたということである。宮内にある熊野大社は歴史も相当に古く、赤湯と宮内の間に二色根(にいろね)の地名があり、戦国頃には二色根を丹色根と書くこともあったらしいので、何やら関係ありそうにも思える。ただし丹敷戸畔は「にうとべ」と読むという説もありり、丹生に通じて鉱山の神のことではないかという説も有力である。 | |
勝手な妄想でいろいろ書きましたが、色々な可能性があり、結局真実は分かりません。読んだ資料から繋ぎ合わせて推測して書いてみたものですので、間違いや不適切な部分も多々あるかとは存じますが、何卒お許しください。明らかな間違いについては訂正させていただきます。 |