二色根城

古い歴史を持つ薬師寺。二色根山。この上に二色根城跡がある。

(写真左:古い歴史を持つ薬師寺。)(写真右:二色根山。この上に二色根城跡がある。)

赤湯温泉の西にある二色根の薬師寺は858年(天安二年)創建とされる。慈覚大師(円仁)がこの地で巨木の根元から出ている光を見つけ、掘り出すと淡い青と赤の二色の色を放つ石仏薬師如来が出たという。そして薬師如来を祭るようになった。その後、何時からとも無く二色根の地名になったという。薬師寺は一時、赤湯八幡宮と宮内熊野権現の別当となったといい、また1312年薬師如来の霊夢により赤湯温泉が発見されたとの伝説から赤湯温泉の湯神として尊崇された。二色根は伊達家文書によると伊達輝宗が訪れた際の歌では「にろね」と書かれている。丹色根と書く場合もあったらしい。また二色根には伊達家4代伊達政依(粟野蔵人)が創建した伊達五山の一つ観音寺があったが後に廃寺となった。薬師寺裏手の二色根山には伊達氏一門の粟野氏(伊達政依の兄弟から分かれたという)の城館、二色根城があった。粟野氏は宮内や川樋にも館を持ち、北条郷一帯で勢力を持っていた。二色根城主、粟野喜左衛門秀用は伊達政宗の弟、伊達小次郎に仕えたが、政宗毒殺未遂事件で小次郎が兄政宗によって成敗され、秀用も伊達家を出奔したという。だが毒殺未遂事件は後世の創作といい、母の義姫は出奔せずにその後も政宗の側に暫くいた。小次郎は1590年死去したとされるが、政宗から永の勘当にしたと宣言されたものの、斬られたという話は無い。秀用の出奔も詳細不明である。その後、関白豊臣秀次の家臣となり、伊予松前十五万石の大名に出世した。だが秀次は養父である時の権力者太閤豊臣秀吉に実子が生まれたのを機に疎まれ、遂に謀反の嫌疑をかけられて高野山で切腹させられる。最上義光の娘駒姫など秀次の妻子は三条河原で惨殺された。秀次に仕えた粟野秀用も事件に連座して1595年自害した。