二井宿峠 |
(写真左:伊達軍と上杉軍が戦った玉ノ木原古戦場)(写真右:大滝不動尊入口) |
二井宿峠は険しい奥羽山脈を越える峠の中では比較的低く緩やかであったため、古くから置賜地方の入口だった。高畠は縄文時代の遺跡や古墳が多く見られ、古代文化の流入も二井宿峠からとされる。伊達宗遠、政宗(儀山)父子が置賜攻略した際も二井宿峠を越え、高畑城を置賜における本拠とした。近代に入り、奥羽本線の計画も当初はスイッチバックの難所板谷峠を避けて白石から二井宿峠を越えて高畠、赤湯と延びる予定だった。峠を登りきった先の野原は1600年慶長出羽合戦の際に伊達軍と上杉軍が戦った玉ノ木原古戦場である。玉ノ木原はかつて伊達氏九代目、伊達政宗(儀山)が置賜の領主、長井道広を攻略するため城館を置いた場所でもある。伊達政宗は上杉家臣の直江兼続が最上義光との戦いで長谷堂城に釘付けになっていた隙に旧領米沢を奪還しようと茂庭綱元に命じて1600年9月25日湯原を攻略し、さらに二井宿峠の玉ノ木原で上杉軍と戦った。伊達軍と上杉軍の合戦では地元の武士達は九代目の政宗以来のつながりで伊達政宗(貞山)に味方し、上杉軍を相手に奮戦したという。江戸時代には仙台伊達藩の領地は峠を数百m越えて高畠側に入り込んでおり「伊達の無理境」と呼ばれていた。これは玉ノ木原の戦いで伊達政宗が攻め取った数百mが伊達の領地になったからという。峠の途中には大滝不動尊がある。ここは二井宿不動、屋代不動ともいわれ、鎌倉時代末期に日本三大不動尊の一つ、新潟県北蒲原郡の菅谷不動尊から分霊奉安したという。天保年間に焼失したが再建された。伊達藩、上杉藩(天領、織田藩支配の時期あり)の国境であったため、情報交換の場となったり戦略上の要地であるため堂の上に館が置かれ、武士が駐屯していたりした。 |