成沢城

成沢城址は歴史公園として整備されている。成沢城址の説明板。後方の山が成沢城址。

(写真左:成沢城址は歴史公園として整備されている。)(写真右:成沢城址の説明板。後方の山が成沢城址。)

成沢城の南西の麓にある成沢八幡。その歴史は前九年の役に遡る。成沢八幡入口の石鳥居。凝灰岩の石鳥居としては日本最古に属する。

(写真左:成沢城の南西の麓にある成沢八幡。その歴史は前九年の役に遡る。)

(写真右:成沢八幡入口の石鳥居。凝灰岩の石鳥居としては日本最古に属する。)

成沢城址には元々、成沢八幡宮が建っていた。この成沢八幡は天喜五年(1057年)に前九年の役で安倍貞任を追討していた源頼義が霊山として知られた瀧山山麓の丘に男山八幡を分遷し、戦勝祈願したのが始まりとされる。その後、天仁二年(1109年)に石鳥居が建立され、これが日本最古の凝灰岩の石鳥居として国の重文に指定されている。さて成沢城の歴史は山形に入部した最上氏の祖、斯波兼頼の孫、兼義が永徳元年(1381年)に成沢の泉出に城を築き、二年後の永徳三年に神託をもって山頂の八幡宮を現在地に遷し、山頂に成沢城を移したのが始まりという。高台にある成沢城は西側が急斜面で麓の鳴沢川が堀の役割を果たし、難攻不落であった。地理的にも山形城の南方を守る前線で南西の前線、長谷堂城や南方の上山を望む位置にある要の城だった。その重要性は築城したのが山形城の最上氏の一族であったことや後に最上義光の懐刀、氏家尾張守が城主としてこの地を守ったことからも窺える。戦国期には成沢道忠が城主となり、成沢の常善寺に手植えの桜を残したという。この成沢道忠の子が最上義光の謀略を支えた重臣、氏家尾張守守棟の養子となって氏家尾張守光氏を名乗り、最上義光の娘を娶って重臣の列に加わったという。しかし元和八年(1622年)最上氏の改易とともに成沢城は廃城となった。成沢八幡の方は江戸時代も領主堀田氏によって保護された。近年成沢城址が歴史公園として整備され、山頂に成沢八幡奥宮が建立されて約600年ぶりに神社が山頂に戻った。