直江兼続の足跡を辿る

兼続の政治
「米沢城下の整備」

 米沢城は鎌倉時代に置賜を支配した長井氏が居館を置いたことに始まり、南北朝時代には伊達氏が長井氏を滅ぼし、戦国時代に伊達晴宗が居城を米沢城に移した。その孫の政宗は岩出山に移封され、蒲生氏郷が会津・米沢を支配すると会津の黒川城を若松城、米沢城を松岬城と改称した。その後1598年、上杉景勝が会津・米沢に移されると米沢城は景勝の右腕である直江兼続が城主となった。その後、関ヶ原の戦いの結果、上杉家は米沢三十万石に移封され、上杉家は石高が四分の一に激減するにも関わらず、家臣を解雇しなかったため、五千もの家臣団が米沢に移住した。このため兼続は米沢城を整備し、屋敷の配分などに取り組み、現在の米沢の基礎となる街づくりを行った。下級武士については南原の原野に配置して半農半士の原方衆として農業生産にも役立てつつ米沢城南方の守備も担った。

米沢城内にある上杉神社。神社は伊東忠太の設計。

(写真:米沢城本丸跡に建てられた上杉謙信公を祀る上杉神社。米沢城奥御殿跡にあり、伊東忠太が設計した。)

上杉鷹山公を祭る松岬神社。他に細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政と鷹山のブレーンが祭られている。また松岬神社には名宰相として名高く、米沢の基礎をつくった直江兼続も祭られている。

(写真:松岬神社。上杉鷹山公、上杉景勝公、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政と米沢藩の礎を築いた人々が祀られている。敷地は上杉景勝公の御殿跡。)

米沢城の桜。城内と城を囲む堀の外側に並んでいる。

(写真:米沢城本丸入口。米沢城址は堀で囲まれた本丸が松岬公園として整備され、奥御殿跡には上杉家の祖、上杉謙信を祭る上杉神社が鎮座する。境内に上杉神社の宝物殿である稽照殿もあり、上杉謙信、景勝、鷹山、直江兼続らの遺品が保管されている。)

(写真:上杉謙信、景勝、鷹山、直江兼続らの遺品が保管されている稽照殿。)

「直江石堤」

 上杉家が米沢に入部した際、松川の谷地河原は川底が浅く、流れが急なために氾濫すると米沢の中心部まで被害を及ぼすことがあった。このため兼続は原方衆など下級武士を動員して谷地河原に長い堤防を築いた。これを「谷地河原堤」といい、その後も改修を繰り返した。現在残るものは上杉治広時代に改築されたものである。後に兼続を称えて「直江石堤」と呼ばれるようになった。その上流には兼続が慶長年間に猿尾堰を築き、ここから水を引いて米沢の西側に作った堀立川に流した。松川と堀立川は農業用水としてだけでなく米沢の東西を守る防衛線としての役割も果たした。他にも木場川などを掘り米沢の生活用水も整備した。直江石堤の上流にはその際に洪水や旱魃から人々が守られるよう水の神「龍師」と火の神「火帝」の加護を願って「龍師火帝」の四文字を線刻した大石を川の中央に据えて祈ったという。後にこの「龍師火帝の碑」は川の中から引き上げられ河川工事に伴い猿尾堰の傍に移された。

直江石堤の碑直江兼続が建設した谷地河原堤は米沢を洪水から守った。

(写真:直江石堤の碑。)(写真:直江兼続が建設した谷地河原堤。)

龍師火帝の碑猿尾堰

(写真:龍師火帝の碑。)(写真:猿尾堰。)

「鉄砲造り」

 また1604年(慶長九年)兼続は近江国友村や堺から鉄砲師を集め、森林と温泉があって鉄砲造りに必要な木炭と硫黄が調達でき、なおかつ山奥で密かに製造できる白布高湯に鉄砲工場をつくった。こうして整備された上杉鉄砲隊は「大坂冬の陣」の「鴫野の戦い」で活躍している。白布温泉には「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑が立つ。

「東屋」の前にある直江兼続公鉄砲鍛造遺跡の碑

(写真:白布温泉「東屋」前にある直江兼続公鉄砲鍛造遺跡の碑。白布高湯は蔵王高湯(蔵王温泉)、信夫高湯(吾妻高湯温泉)とならぶ奥州三高湯の一つとされ、正和年中、出羽国の佐藤宗純が諸国巡錫の際に発見したとも、関部落の猟師が白い斑のある大きい鷹が湯浴みをしているのを見つけ、白斑(しらふ)の鷹湯と命名し、のちに白布高湯となったともいわれている。)

「街道整備」

 兼続はまた領内の街道整備にも努めた。1598年上杉景勝は越後から会津に領地替えとなり、置賜と庄内も領有した。しかし庄内は他の領地から孤立し、米沢から庄内に向かうには最上義光が領する山形か堀氏が入った越後を経由するしかなかった。このため上杉家の米沢城主直江兼続は長井の草岡から葉山や朝日岳を越えて庄内に抜ける「朝日軍道」を整備して越後や山形を経由せずに米沢から庄内に輸送できる態勢を整えた。しかし山形城主最上義光はこの山岳道路整備を修験者を抱える大沼浮島稲荷からの報告で察知し、上杉に謀反の動きありと徳川家康に報告した。豊臣秀吉没後、実権を握った徳川家康はこれらの街道整備や神指城築城などを詰問し、上杉家に圧力をかけた。これに対して直江兼続が家康に送った返事が「直江状」と呼ばれるものである。この返書に怒った家康は会津征伐を行い上杉家を滅ぼそうとするが、その隙に石田三成が決起して関ヶ原の戦いにつながった。1600年9月山形でもこれに伴い「慶長出羽合戦」が始まり直江兼続が最上義光を攻めた。しかし石田三成率いる西軍は関ヶ原で敗北し、兼続も米沢に撤退した。庄内の上杉軍は孤立しながらも最上義光に抵抗を続けたが1601年4月ついに城を明け渡し、雪の朝日軍道を越えて米沢に帰還したという。これ以後、庄内は最上義光の領地となったため朝日軍道が使われることはなく消滅した。

草岡の朝日葉山登山口。朝日軍道は草岡から葉山、朝日岳を越えて庄内に抜けた。

(写真:草岡の朝日葉山登山口。朝日軍道は草岡から葉山、朝日岳を越えて庄内に抜けた。)

 1604年、兼続は米沢大町札辻を起点に藩内の主要街道に一里塚を設置させている。米沢街道は米沢から北上し、窪田、糠の目経由で赤湯に至る。赤湯の入口、吉野川を渡る橋の手前には一里塚の松が今も残る。赤湯から鳥上坂を越え、川樋、中山、上山を経由して山形へ向かう。これは現在の国道13号線とほぼ同様のルートである。兼続が街道整備を行う以前、伊達氏時代は米沢から夏刈、鍋田を経由して玉坂峠から川樋へ抜けるルートであった。当時は夏刈に資福寺があり伊達氏にとって重要な拠点だった。また吉野川は天正六年の水害で現在の流路に変わったが、これ以前は蒲生田から萩生田、宮崎を経て松川に注いでおり、今も沖郷に残る貯水池や上無川が旧吉野川の名残という。そのため夏刈から吉野川を渡らず北上し、玉坂峠から川樋に抜けられた。水害の影響もあったろうが、兼続の街道整備が行われたことで現在の置賜の交通網の基礎が出来上がった。

(写真:米沢大町札辻。)

花台橋の近くにある一里塚の松。

(写真:兼続が整備した一里塚の一つ。米沢街道沿い、吉野川の橋の袂、赤湯の入口に「一里塚の松」として残る。)

「禅林文庫から興譲館へ」

 領国経営に努める一方で兼続には文化人としての側面があり、城を落すとまず書庫を探して書物を確保したと伝えられる程で1607年『文選』の「直江版」を著すなど特に漢学への造詣が深かったという。また兼続は亡くなる前年の1618年に足利学校で学んだ僧九山に禅林寺を開基させた。そこに自らの蔵書や出版物を納め「禅林文庫」となる。後に禅林寺は法泉寺と改称しするが「禅林文庫」の鎮守として慶安元年(1648年)に創建された文殊堂は今も境内に残る。元禄年間には上杉綱憲(吉良上野介の子)が学問所を創設した際に孔子を祀る聖堂「感麟殿」を建てた。上杉鷹山が米沢藩の学館再興を掲げて藩校興譲館を創設した際に聖堂を「先聖殿」と称して興譲館の向かいに設置し、後にこれを法泉寺境内に移した。こうして兼続が興した米沢の学問の流れは上杉鷹山によって藩校興譲館創設に繋がったのである。また法泉寺庭園は上杉定勝の代に京都天龍寺の庭園を模して造られ、庭園では上杉鷹山の詩会が催された。法泉寺には直江兼続の詩碑、上杉鷹山の詩碑も立っている。

直江兼続が学館「禅林文庫」を創設した際、鎮守として建てられた法泉寺文殊堂。

(写真:直江兼続が創設した「禅林文庫」の鎮守として建てられた法泉寺文殊堂。

孔子を祀る聖堂は上杉鷹山によって「先聖殿」と名付けられた。

(写真:上杉鷹山が興譲館創設の際、設けた聖堂「先聖殿」。後に法泉寺境内に移された。)

(写真:法泉寺にある直江兼続の詩碑)

「文化人兼続による神社仏閣の保護」

 兼続は領内の神社仏閣の再建や保護にも力を注いだ。伊達氏などかつての領主が保護したように領民の信仰の対象を保護することで新領主としての信頼を得ようとした。また要衝の地にある神社仏閣を再建することで防衛上の拠点にすることも考えていた。米沢の寺院は城の東側を守るように配置おり、墓石に使われた万年塔はバリケードに転用する目的で作られたという。

 兼続は1602年には高畠の亀岡文殊にて詩歌会を催し、百首の漢詩・和歌を奉納した。前田慶次、安田能元、春日元忠、岩井信能、大国実頼らが参加している。その漢詩や和歌は今も亀岡文殊堂に保管されている。

伊藤忠太設計の亀岡文殊文殊堂

(写真:高畠にある亀岡文殊堂。現在の建物は米沢出身の工学博士伊東忠太の設計で大正三年改築された。亀岡文殊は大和の安倍、丹後の切戸とともに日本三文殊の一つとされる。中国の南北朝時代、南朝梁の僧青巌が梁の大同二年この地に飛来して霊場となったとも、会津恵日寺の高僧徳一が中国の五台山に似ているとして大同二年( 807年)文殊堂を創建したのが始まりとも伝えられる。伊達政宗も亀岡文殊を信仰し、政宗が納めた古鐘が残されている。)

 慶長年間、直江兼続は主君上杉景勝の祈祷師である明鏡院清順に命じて羽黒山より羽黒大権現を勧進して笹野観音堂の裏に後神として祀った。明鏡院清順は元は養蔵坊清順を名乗り、羽黒山別当であったが、慶長五年(1600年)の慶長出羽合戦で最上義光の庄内侵攻によって羽黒山から米沢に逃れた。後、清順は還俗して佐野玄誉を称し、兼続により武士に取り立てられた。また兼続は笹野観音を米沢の南を守る拠点として重視し、笹野観音林に鉄砲六十挺を備えた。

笹野観音

(写真:米沢郊外の笹野観音堂。笹野観音は坂上田村麻呂が千手千眼観世音菩薩を祀り、旅僧が霊木を刻んで笹野村の鎮守として羽黒大権現を祀ったのが始まりで、笹野山中腹に観音堂と羽黒大権現の社があった。大同元年( 806年)現在地に本堂を建立し、弘仁元年( 810年)会津の名僧徳一上人を開山第一世として入仏供養を行った。後に宥日上人が観世音菩薩と羽黒大権現を秘仏として新しい千手千眼観世音菩薩を安置するに至り霊験あらたかな名刹として信仰を集めるようになった。天正六年(1577年)には伊達政宗が開帳供養を行った。安永八年(1779年)には上杉鷹山により観音堂が再建され、入仏供養が行われた。笹野観音の縁起物「笹野一刀彫」は蘇民将来という無病息災の御守りの彫刻から始まり、これにより当地には流行り病が無かったという。)

 兼続は元亀元年(1570年)に伊達氏と葦名氏の合戦で焼失した関根の羽黒神社を慶長三年(1598年)に再建した。関根は板谷峠を越える街道に面し、後に米沢藩主上杉治憲(鷹山)は寛政八年(1796年)その師である細井平洲の十三年振り、三度目の米沢下向に際して自ら関根の羽黒神社まで出迎えた(上杉治憲敬師郊迎跡)。

関根の上杉治憲敬師郊迎跡(羽黒神社)

(写真:関根の羽黒神社。大同元年(806年)大窪沢山頂に創建され、暦仁元年(1238年)現在地に移ったという。)

 また兼続は長井の総宮神社の境内に自ら直江杉を植えて保護している。

直江杉が植えられた総宮神社。

(写真:長井の総宮神社。坂上田村麻呂が蝦夷を征服した際、日本武尊を追尊して白鳥の社を創建した。後に下長井郷四十四か村の神社をこの神社に合わせて下長井郷の総鎮守としたことから「総宮」と称した。)

 西明寺は慶長六年(1601年)上杉家の米沢移封に伴い、越後から米沢の遠山村に移転した。西明寺は「謡曲 鉢の木」に謡われる北条時頼(最明寺入道)の故事に由来して創建されたという。直江兼続は遠山に訪れた際に高台にある西明寺から米沢の風景を眺め、故事の情景に想いをはせながら詩を詠んでいる。

西明寺展望に題す

「遠山西に望む 西明寺 はるかに憶う 最明寺投宿の秋 暮月林間まさに 外にめぐらんとし 無端の衣色 金風に満つ」

直江兼続が西明寺から米沢を眺めて詠んだ詩の碑。

(写真:直江兼続が西明寺から米沢を眺めて詠んだ詩の碑。)

 宮内の熊野大社は日本三熊野の一つで、創立年代が不明だが大同元年( 806年)平城天皇の命により再建と伝えらる。1063年源義家が紀州熊野大社分霊を再勧請して戦勝感謝した。境内入口の大銀杏は義家が鎌倉権五郎景政に植えさせたと伝えられる。

 宮内は、熊野大社の門前町として栄え、北条郷の要衝だった。そのため熊野大社の北側に宮沢城が築かれた。1498年宮沢城主の粟野政国が社殿を再建した。永禄・天正年間には大津美作守、大津土佐守父子が城主で天正十四年(1576年)に伊達政宗が大檀那となって大津美作守が熊野大社社殿を建立した。その後、蒲生氏の時代には中山城主蒲生郷可が不仲の米沢城主蒲生郷安を攻めるため宮沢城を修理している。

 熊野大社と宮沢城の関係は非常に深いものだったが、慶長三年(1598年)上杉景勝の支配下になると兼続は信濃飯山城主尾崎三郎左衛門重誉を宮沢城主とし、信濃から氏神の和光山明神を熊野大社境内に移した。熊野大社に残る信濃善光寺由来の品々はこの時もたらされた。重誉の曽祖父泉(尾崎)弥七郎重歳の娘は兼続の母蘭子で兼続の親族である。宮内の北に隣接する金山城主には兼続の妹婿である色部綱長(のち光長)が入り、宮内・金山は兼続の親族で固められた。これは宮内の地が対最上義光の前線基地として重視されていたためで「慶長出羽合戦」では兼続の命により、色部綱長や尾崎家臣の安部右馬助綱吉らは倉賀野綱元の与力として小滝口から最上義光を攻撃し、武功をあげた。慶長九年(1604年)には直江兼続が大檀那となって社殿を建立している。

熊野大社の石鳥居。宮内は街並みを保存している。

(写真:熊野大社の石鳥居。宮内は熊野大社の門前町として発展した。)

熊野大社。安部右馬助を顕彰する碑もある。

(写真:熊野大社拝殿。天正十四年(1576年)に伊達政宗が、慶長九年(1604年)に直江兼続が再建している。現在のものは天明年間の作という。本殿の彫刻には「三羽の兎」が隠れており、三羽全て見つけると金持ちで長寿になるという。)

 尾崎重誉の家臣安部右馬助綱吉は信州飯山から主とともに宮内に移住したが、尾崎氏が福島に移った後も宮内に土着し、宮内の町割や吉野川の治水、荒地の開発などに尽力した。火災に遭った熊野大社の社殿修復にも努め、寛永三年に洪鐘を奉納した。熊野大社境内には右馬助を顕彰する碑が建っている。寛永六年には北条郷代官及び金山奉行となり金山の経営にも努めている。

安部右馬助綱吉が奉納した寛永三年の洪鐘。

(写真:安部右馬助綱吉が熊野大社に奉納した洪鐘。)

安部右馬助綱吉の顕彰碑。

(写真:熊野大社境内の安部右馬助綱吉顕彰碑。右馬助は荒地の開発や宮内の町割を行った。この際、宮内は城下町に倣った町割がなされ、吉野川から大堰を引き水利を確保しつつ、落堀を開削して宮内が水害に遭わないように工夫した。また実行されなかったが、度々氾濫する吉野川の水を白龍湖に流すことでその土砂により、大谷地と呼ばれる大湿地帯を埋め立てて田畑にする計画を立てていた。)