直江兼続の足跡を辿る

兼続の戦歴
「御館の乱と新発田重家の乱」

 兼続の父、樋口兼豊が家老として仕えた上田長尾家は領内に上田銀山を抱え、越後と関東を結ぶ交通の要衝に城を構え、一時は越後守護代である府内長尾家をしのぐ勢いを見せた。このため越後守護代長尾晴景は妹(仙洞院)を上田長尾家の長尾政景に嫁がせた。
しかし晴景は病弱で将としての器に欠け、弟の長尾景虎に守護代の職を譲らせられる。さらに越後守護上杉定実が死去すると景虎は実質上越後の国主となる。政景は景虎に従おうとしなかったが、抗しきれずついに景虎に降って家臣の列に加わる。この長尾景虎が後の関東管領上杉謙信である。

 その後、長尾政景と仙洞院の間に喜平次顕景(後の上杉景勝)(1555〜1623)が生まれた。上田長尾の家老の家に生まれた兼続はその才を見込まれて顕景の近習に抜擢された。長尾政景が舟遊び中の事故で不審死を遂げると家臣団の上田衆は子の顕景に引き継がれる。一方、一生妻子を持たなかった上杉謙信は姉夫婦の子である顕景を養子に迎えて上杉弾正少弼景勝を名乗らせた。だが謙信には他にも小田原北条氏から迎えた上杉三郎景虎や能登畠山氏から迎えた畠山義春(上條政繁)といった養子もいた。

 1578年上杉謙信が亡くなると跡目争いが勃発。景勝は遺言により相続したと主張し、春日山城本丸を押さえる。一方景虎は城下の御館に入り前関東管領上杉憲政の支援を受ける。これを「御館の乱」という。越後を二分することになったこの争いは当初、実家北条氏の力により景虎が優勢だったが、景勝が武田勝頼に金品を贈って宿敵武田家と和睦し、勝頼の妹(大儀院)を妻に迎えると形勢逆転し、和解するために景勝のもとに赴いた上杉憲政と景虎の子道満丸は斬られ、景虎とその妻(景勝の姉妹)は逃亡先の鮫ヶ尾城で家臣の裏切りにあい自害して乱は終わる。

 しかし、上杉家重臣直江信綱は御館の乱の論功行賞に不満を持つ毛利秀広に斬殺される。毛利は居合わせた岩井信能に討ち取られた。信綱は惣社長尾家の出で上杉家重臣直江家の婿になっていた。景勝は有能な側近である兼続を信綱の未亡人(お船)に娶わせ、重臣である直江家を継がせた。こうして直江兼続が誕生することになる。

関東管領上杉憲政の墓

(写真:米沢の照陽寺に残る関東管領上杉憲政の墓。上杉憲政は北条氏康に敗れ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、上杉姓と関東管領を譲った。その後は越後府内の御館に住み、謙信の庇護下にあった。ところが謙信が亡くなり、謙信の養子である景勝と景虎の跡目争いが始まると憲政は宿敵北条の人間にも関わらず景虎を御館に迎えて春日山城の景勝と敵対することになる(御館の乱)。当初、景虎方には北条氏政、武田勝頼が味方したため優勢だったが、景勝は勝頼の妹との結婚と城の割譲、黄金の譲渡などを条件に武田と和睦。関東の北条勢は雪のため援軍がままならず、戦局は景勝有利に傾き御館は総攻撃を受ける。上杉憲政は和議を求めて景虎の子道満丸を連れて景勝のもとを訪れようとするが景勝軍に包囲されて道満丸と共に斬られた。憲政に対する評価は「臆病な大将」「甘やかされて育ち、わがままだった」などと辛辣である。彼の流転人生同様、墓も流転の道を辿り、上杉家の転封と一緒に移動した末、米沢に落ち着いた。)

 1581年新発田重家が織田信長に内通して謀反を起こす。1582年には同盟者の武田勝頼が織田に滅ぼされ、ついに柴田勝家率いる織田軍が上杉を滅ぼさんと攻め込んできた。1582年最前線の越中魚津城は織田軍の猛攻により全滅の憂き目を見る。しかし魚津落城の前日「本能寺の変」が起こり、織田信長は家臣である明智光秀に討たれた。慌てた織田軍は撤退し、越後は危機を脱した。

 羽柴秀吉が柴田勝家らを討って織田信長の後継者としての地位を固めると上杉家も秀吉と手を結ぶ。1585年には越中で景勝・兼続主従と秀吉・石田三成主従が面会した。この時、直江兼続と石田三成が親交を結んだため、後に会津征伐と三成の挙兵に際しては二人が示し合わせたのだとも言われる。

 秀吉と手を結ぶと新発田攻めを本格化させ、重要拠点の新潟・沼垂を攻略。1587年ようやく新発田重家を滅ぼして領内を安定させた。1589年には佐渡を平定。出羽庄内では上杉の武将である本荘繁長が最上義光を撃退し、越後・佐渡・出羽庄内にわたる広大な領国を形成する。こうして上杉家は豊臣政権下でも重きをなし、上杉景勝は五大老の一人に列する程であった。

「会津移封」

 1598年上杉家は国替えとなり、会津を中心に米沢、庄内を併せた百二十万石の大名となる。そのうち三十万石が兼続に与えられ(これは兼続の与力を含めての石高で兼続自身の所領は六万石という)米沢城主となる。

 米沢は伊達政宗の本拠地で、会津は政宗が葦名との激しい戦いを経て得た領国である。秀吉は政宗を岩出山に移し、蒲生氏郷を会津に配置していた。氏郷は織田信長の婿であり、天下も狙える逸材だった。秀吉は氏郷を中央から遠ざけつつ、東に伊達、北に最上、西に上杉と外様に囲まれた会津に配置して抑えとした。ところが氏郷は1595年40歳の若さで急死。茶人でもある氏郷が茶の席で政宗に毒を盛られたとも言われた。子の秀行はまだ13歳。中山城主蒲生郷可が米沢城主蒲生郷安を攻撃しようとするなど家臣同士の争いが続き蒲生家は領地を没収された。この蒲生の代わりに上杉家が会津に入ったのである。

 1598年豊臣秀吉が病死すると徳川家康の専横が始まり、石田三成は佐和山城に蟄居させられた。上杉家は会津若松の郊外に新しく神指城を築城したり、孤立していた庄内と米沢を結ぶ山岳道「朝日軍道」を整備したりした。

(「朝日軍道」:最上義光の領地によって分断された米沢と庄内の上杉領を結ぶために開削された山岳路。長井市草岡から葉山、朝日岳の尾根に沿う形で庄内の鱒淵に至る。しかし、上杉家の動向は朝日岳修験道の拠点であった大沼浮島稲荷(朝日町)から最上義光に報告されている。慶長出羽合戦後、東禅寺城の開城で志駄義秀が庄内から米沢に逃れる際、この朝日軍道を越えた。)

 最上義光などからこれら上杉家の動向を聞いた家康は西笑承兌を通して上杉家を詰問する。これに対して兼続は世にいう「直江状」を送り返して家康を挑発した。家康はこれに怒り、会津征伐に向かった。

「慶長出羽合戦」

 1600年6月24日家康の会津征伐に乗じて石田三成が挙兵したとの報が入る。家康は翌日、小山で軍議を開き、会津征伐を取りやめて関ヶ原に向かった。その25日伊達政宗は白石城主甘糟景継の不在を突いて上杉家の白石城を攻略している。その後は動きがなく8月に入ると会津征伐のため山形に集まっていた奥羽諸将も帰り、事実上上杉を牽制する役割は伊達政宗と最上義光に委ねられた。

 9月になると兼続は山形城の最上義光を攻略すべく動き始める。最上領のために庄内は上杉領の中でも孤立していたし、最上義光はかつて庄内を巡って上杉家臣本荘繁長と激しく争った仇敵である。義光も自らが狙われているのを察し、上杉方に嫡男義康を人質に送るから最上を攻めないように懇願しつつ、裏では秋田実季と連絡を取って上杉を挟み撃ちにせんと動いたという。こういった動きを知った兼続は油断ならない最上義光を滅ぼさんと決意し、最上攻めを開始する。

 9月8日直江兼続は二万四千の軍を指揮して最上領への侵攻を開始。兼続率いる本隊には春日右衛門元忠、水原常陸介親憲、上泉主水正泰綱、前田慶次郎利益らの武将が従い、萩野(白鷹町)から狐越といわれる白鷹山北側の高原地帯の道を抜けて畑谷城(山辺町)・長谷堂城(山形市)を経て山形城に向かった。また倉賀野綱元率いる別働隊に与力として金山の色部与三郎綱長(光長)や宮内の尾崎家臣安部右馬助綱吉らを加え、小滝(南陽市)から山元(上山市)の小白府街道沿いに長谷堂城へと向かった。中山城(上山市)の横田式部旨俊、清水三河守康徳、本村造酒丞親盛らは米沢街道沿いに上山城(上山市)へと進撃し、高畠からも柏木峠越えで上山城攻撃の別働隊を出した。
庄内からは尾浦城(鶴岡市)の下吉忠が六十里越を越えて白岩城(寒河江市)・谷地城(河北町)を攻略し、東禅寺城(酒田市)の志駄義秀は最上川を遡り最上領に攻め込んだ。北では横手城の小野寺義道も上杉に呼応して湯沢城(湯沢市)を守る楯岡満茂を攻撃し、三方から最上義光を攻め立てた。

「畑谷城の戦い」

 最上義光は七千余の軍勢のうち一部を庄内攻略に差し向けてしまったため、少ない兵力で兼続を迎え撃つこととなる。義光は兵力の集中を図るため小城からの撤退を指示した。だが兼続本隊の進路に立ち塞がる標高549mの畑谷城では守将江口五兵衛光清は三百余という僅かの兵力ながら義光の命令を無視して籠城を続けた。江口光清は主君義光とともに連歌を詠むなど文武両道の武将であった。11日兼続は畑谷城を攻撃開始。江口は兼続の降伏勧告も無視して上杉軍に百名ほどの死傷者を出させる程に奮戦したが、9月13日ついに全滅して畑谷城は陥落し、江口は自害。義光が救援に出した将飯田播磨も戦死して最上方は五百余名が討ち死にした。

畑谷城址に立つ江口光清の碑。

(写真:畑谷城址に立つ江口光清の碑。江口は三百五十ばかりの僅かな兵で畑谷城で兼続率いる二万の上杉軍を迎え撃った。畑谷城下の長松寺には江口五兵衛光清の墓と彰徳碑が立っている。)

「長谷堂城の戦い」

 続いて兼続は山形盆地に面する西部丘陵地帯に進出し、正面に長谷堂城が見渡せる菅沢山に本陣を置く。長谷堂城は標高227mの独立丘陵にある要害で、長谷堂城が陥落すれば平地に築かれた山形城は防衛線を失う。一方、兼続率いる上杉軍本隊は二万余の大軍である。義光は重臣である志村伊豆守光安に副将として剛勇で聞こえた鮭延越前守秀綱を付けて長谷堂城を守備させた。

菅沢の直江兼続本陣跡にある長谷堂の古戦場図。

(写真:菅沢の直江兼続本陣跡にある長谷堂の古戦場図。直江兼続が本陣を置いた菅沢山は現在「すげさわの丘」という住宅地になっている。)

 14日兼続は長谷堂城を包囲した。義光も須川東岸の若宮に本陣を置き、上杉軍の山形侵入に備えた。翌15日上杉軍の水原親憲率いる鉄砲隊が谷柏を経て清水義親、楯岡光直ら須川の最上軍を攻撃して最上軍は三百名が戦死。義光は嫡男の最上義康を伊達政宗に遣わし救援を求めた。16日兼続は長谷堂城に力攻めを仕掛けるが志村光安はこれを防ぎきる。逆に家臣の横尾勘解由・大風右衛門らに二百余名の決死隊を預けて上杉軍の寄せ手で兼続の部将春日元忠に夜襲をかけて上杉軍を大混乱させる。17日兼続は春日に命じて長谷堂城に猛攻を仕掛けるも撃退され、さらに青田刈りして挑発するが城方はその手に乗らなかった。逆に副将の鮭延秀綱が虚を突いて攻撃し、上杉本陣を脅かす戦いぶりを見せたという。兼続も「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と賞賛した。

山頂に立つ長谷堂城址の碑

(写真:長谷堂城址の碑。長谷堂は昔から山形を守る要衝の地で戦場になった。1514年には伊達稙宗が最上義定を長谷堂で撃破し、最上氏は一時期、伊達の傀儡となるほど力を失った。)

長谷堂城の城郭復元図

(写真:長谷堂城の城郭を復元した地図。)

 最上家の危機に際し、山形城郊外の南館に住んでいた最上義光の妹で伊達政宗の母義姫は伊達に援軍を催促し、政宗もついに援軍の派遣を決意した。政宗は叔父の留守政景に兵三千を預けて援軍を差し向けた。22日伊達軍は山形城東方の東沢に着陣するが様子を見て動かなかった。一説にはこの時、9月15日に関ヶ原の戦いで石田三成が敗れたという情報が伊達から最上へもたらされたともいい無駄な戦闘を避けたのかも知れない。

 半月が過ぎても城を落せない上杉方は焦り、9月29日上杉軍の猛将で新陰流の剣豪でもある上泉主水正泰綱が戦死した(一説に上山攻めで討死したともいう)。

上杉軍の勇将上泉主水正泰綱が戦死した「主水塚」

(写真:上泉主水正泰綱が戦死したという場所に残る主水塚。)

 9月15日時点で関ヶ原にて石田三成が敗北していたという知らせが上杉方に届く。一変して窮地に陥った兼続は撤退を決断した。富神山山麓から畑谷方面に撤退を始めた兼続に最上義光は追撃を開始。伊達軍も上杉軍への攻撃を開始するが伊達の湯目加賀守は戦死した。上杉軍は自害を覚悟した兼続を前田慶次が諌めて兼続を守るために奮戦したといい、水原親憲率いる鉄砲隊の射撃で兼続を守りつつ撤退を続ける。なおも猛追する最上義光に鉄砲隊が火を噴き、義光の側近堀喜吽は鉄砲に撃たれて戦死し、義光も兜に被弾する。激しい反撃を受けた義光は追撃を断念した。

かぶき者前田慶次の供養塔。

(写真:米沢の堂森善光寺にある前田慶次供養塔。前田慶次利貞(利益)は滝川一益の甥にして前田利家の兄、利久の養子。傾き者として有名である。叔父の前田利家の下を出奔し、上杉家を気に入って上杉家に寄食した。1600年の慶長出羽合戦では直江兼続に従い畑谷城、長谷堂城の戦いに参加。撤退戦で兼続が自害を覚悟した時、これを諌めて兼続を守り朱槍で奮戦したという。その後は米沢郊外の堂森に隠棲したといい、慶次が使ったと伝えられる慶次清水も残る。文人でもあり『前田慶次道中日記』を書き残し、1602年直江兼続らと亀岡文殊での歌会に参加している。堂森善光寺は大同二年(807年)開基され、伊達家や上杉家の入部以前から信仰を集め、置賜の地頭長井氏の祖、長井時広夫妻の坐像も残されている。)

10月3日兼続は荒砥城(白鷹町)に帰還して撤退戦は終了した。

荒砥城跡に建つ八乙女八幡宮。

(写真:荒砥城址に建つ八乙女八幡宮。後三年の役の際、源義家が岩清水八幡宮を勧請し、八人の乙女の舞を奉納したことから八乙女丘と称するようになった。奥州藤原氏時代、この丘に荒川次郎が八乙女城を築城した。境内の「八乙女種まき桜」は荒砥城主だった桑島和泉守が植えたものという。慶長三年(1598年)上杉景勝は対最上の最前線として重臣泉沢久秀を城主とする。慶長出羽合戦においては長谷堂城の戦いから撤退した直江兼続が荒砥城に帰還した。慶長六年には兼続の腹心、志駄修理義秀が城代となる。江戸時代は御役屋が置かれて御役屋将が在番した。)

「中山城と物見山の戦い」

 慶長三年(1598年)置賜地方は上杉景勝領となり、対最上の最前線である中山城主には横田式部旨俊が配された。また武田旧臣で上杉家に移った清水三河守康徳が中山城将に入った。1600年、山形では最上義光と上杉家臣直江兼続が激突した「慶長出羽合戦」が展開された。中山城からも横田旨俊と清水康徳に兼続直属の与板衆である本村(穂村)造酒丞親盛を加えて上山城に進撃することになった。

中山城址天守山の石垣

(写真:中山城址の天守山に残る石垣。中山はもともと置賜郡に属し、対最上氏の最前線だった。戦国時代の永禄・元亀年間には伊達家臣中山弥太郎がこの中山城を守備した。天正二年(1574年)には最上家の御家騒動に介入した伊達輝宗が最上義光と戦い、新宿(二井宿)から最上領に侵入して楢下を奪い、高松の地を焼いた後、中山城へ引き揚げた。1588年、伊達政宗と最上義光が中山で対陣し、一触即発の危機に陥った際は政宗の母で義光の妹である義姫が両軍の間に居座って戦いを断念させたという話もある。置賜郡が蒲生氏郷の領地となると米沢城に蒲生郷安、中山城に蒲生郷可が配された。しかし蒲生郷可は郷安と仲が悪く、米沢城を攻めるため宮内城(南陽市)を改修した。江戸時代には天守山麓に米沢藩の御役屋が置かれた。米沢藩の重要な支城には御役屋という政庁が置かれ、中山城では三段の郭で構成された天守山の麓に御役屋を置き、御役屋将を配して藩境を守らせた。)

 上山城主の里見越後は上杉方に内通していたといわれるが、この時は山形に留め置かれ、息子の民部が上山城を守備していた。里見民部は中山との境界にある物見山に草刈志摩守を伏兵として配置した。9月17日本村が率いる隊は中山から現在の前川ダムを経て赤坂の地へ抜ける間道を利用して上山方面に攻め入った。ところが里見民部は藤吾でこれを迎撃し、山間路で隊列が伸びているところを背後から伏兵に襲われ、本村親盛は討死した(物見山の戦い)。横田の隊は掛入石から街道沿いに進み川口から上山方面に攻め入って焼き討ちするが、こちらも村々の激しい抵抗に敗北した。本村を討ち取った草刈志摩守は上杉軍を追って中山にまで攻め入ったが広河原で鉄砲射撃を受けて討死した。この一連の戦いで多くの将兵が戦死し、中山から前川ダムへ抜ける間道の途中に葬り「首塚」として祀っている。

「首塚」前川ダムから中山に抜ける間道沿いにある。

(写真:物見山の戦いで討たれた将兵を弔った「首塚」。中山から前川ダムに抜ける間道沿いにある。)

「伊達の無理境」

 伊達政宗は兼続が長谷堂に釘付けなのを見て9月25日鬼庭綱元に湯原(七ヶ宿町)を攻撃させて二井宿峠から旧領米沢への侵攻し、峠の鞍部に広がる玉ノ木原で上杉軍と戦った。玉ノ木原は九代伊達政宗(儀山公)が置賜を支配していた地頭、長井道広を攻略するための城館を置いた場所という。九代伊達政宗が置賜を攻略すると、桑折西山城と高畠城を拠点とした伊達氏にとって二井宿峠は重要な連絡路となった。この戦いでも高畠の武士達は九代政宗以来のつながりで伊達軍に味方したという。江戸時代には仙台藩の領地は峠を数百m越えて高畠側に入り込んでおり「伊達の無理境」と呼ばれていた。これは玉ノ木原の戦いで伊達が攻め取った数百mが伊達家の領地になったからという。

伊達軍と上杉軍の決戦の舞台、玉ノ木原古戦場。

(写真:伊達と上杉が戦った玉ノ木原古戦場。)

 さらに政宗は兼続が長谷堂から撤退して山形方面の心配が取り除かれると福島の上杉領に侵攻した。10月6日宮代で本荘繁長を破り、繁長が福島城に籠城すると政宗は城攻めを行うが繁長の奮戦で落せなかった。上杉方に仕掛けた内通工作も発覚し、撤退する途中で繁長の命を受けた梁川城の須田長義に伊達軍後方の小荷駄隊が襲撃され、繁長がそれを機に反撃に出て政宗は陣幕を奪われた(松川の戦い)。

「東禅寺城の戦い」

 庄内の上杉軍の動きであるが、志駄義秀は酒田の東禅寺城に帰還できたものの、下治右衛門吉忠には撤退の報せが届かず最上領内に取り残されてしまい最上義光に降伏し、逆に義光の庄内攻めの先鋒となって志村光安とともに攻め込んできた。庄内の上杉領は最上軍の攻撃を受け、志駄義秀は最後まで抵抗を続けたが、1601年4月24日ついに東禅寺城を開城し、雪の朝日軍道を越えて米沢へ逃れた。庄内は最上義光の支配下に入り、上杉と最上の戦いは収束した。

酒田東高校敷地にある亀ヶ崎城址の碑

(写真:酒田東高校敷地の亀ヶ崎城址の碑。)

 酒田の亀ヶ崎城は1478年大宝寺の武藤氏が度々離反する砂越氏討伐のために築いた東禅寺城が始まりという。東禅寺城主としては東禅寺筑前守義長が知られる。東禅寺筑前守は武藤義氏の妹婿で前森蔵人を名乗っていた。武藤義氏は越後の上杉氏の力をバックに庄内を強権的に支配しようとしたため家臣や領民から「悪屋形」と嫌われた。そんな中庄内進出を企む山形城の最上義光の策謀により砂越氏や来次氏が義氏に対して反乱を起こす。義氏は前森に兵を預けて討伐しようとするが、前森は預けられた兵を率いて主君武藤義氏を討った。その後、前森蔵人は東禅寺筑前守義長を称して東禅寺城主となったという。武藤氏は義氏の弟丸岡兵庫が継ぎ武藤義興を名乗って上杉家臣本荘繁長から養子義勝を迎えた。だが庄内を支配しようとした最上義光は東禅寺筑前守の手引きで義興を滅ぼし、義勝は温海の小国城に敗走。本荘繁長は息子義勝の援軍として介入し、十五里ヶ原の戦いで本荘・武藤軍と最上・東禅寺軍が決戦に及んだ。東禅寺筑前守は弟右馬頭に兵を預けたが敗北。東禅寺筑前守は戦死。右馬頭は本荘繁長の本陣に斬り込むが繁長を倒せず斬り死にした。最上軍も重臣氏家尾張守守棟の嫡男が戦死するなど大きな損害を被った。

 その後、庄内は本荘繁長の支配を経て上杉領となり東禅寺城主として甘粕備後守景継、続いて直江兼続の腹心、志駄修理亮義秀が酒田を統治した。

 最上義光は念願の庄内支配を実現すると寝返った下吉忠を尾浦城主に戻し、東禅寺城主には志村光安を任命した。1603年酒田港に巨大亀が上陸すると志村光安はこれを義光に報告した。義光はこれを吉兆と喜んで東禅寺城を亀ヶ崎城と改称させた。同時に大宝寺城が鶴ヶ岡城、尾浦城が大山城と改められている。だが最上家中は吉兆と裏腹に争いが激化し、義光の長男最上義康が廃嫡された上に庄内丸岡にて討たれ、1614年最上義光が死ぬと次男で跡を継いだ親徳川の最上家親に親豊臣の三男の清水義親が反乱する。志村光安の跡を継いだ志村光清は清水の意を受けた一栗兵部高春の謀反により下吉忠とともに鶴岡城内で暗殺された。一栗は逃亡するが鶴岡城代新関因幡守久正に討たれ、清水も兄家親に討たれた。しかしその後も最上家は最上家親が変死し、子で13歳の義俊が跡を継いだため、義光四男の山辺義忠を後継に推す楯岡光直、鮭延秀綱と家親の死は陰謀と主張する松根光広の争いが激化し、家臣団の争いが収まらず幕命により改易される。

 最上氏改易後、酒井忠勝が庄内藩主となった。忠勝は居城を亀ヶ崎城にするか鶴ヶ岡城にするか迷った末、酒田は港町で大いに栄えているが鶴岡は居城を置かないと衰退するかも知れないということで鶴岡に居城を置いた。だが酒井氏は徳川四天王筆頭で譜代中の譜代、周囲の外様大名を監視する役割から亀ヶ崎城も存続を許され、江戸時代を通じて城代を置き支配した。

 明治になると酒田には亀ヶ崎城には民政局置かれ酒田県庁となった。のちに合併で山形県が成立すると亀ヶ崎城は解体され、現在は城址に酒田東高校が建っている。

「大坂の陣 鴫野の戦い」

 1614年10月、豊臣家は浪人を大坂城に召抱えて徳川家への対決姿勢を鮮明にする。これに対して徳川方は諸大名を召集し、大坂城を包囲する。上杉景勝も直江兼続、景明父子、水原親憲、安田能元、須田長義、本庄充長などを引き連れて大坂城の東方に陣取った。11月豊臣方が設置した砦や柵の攻略を開始し、上杉軍も大坂城北東、鴫野に築かれた柵の攻略を命じられた。11月26日景勝は第一陣を須田長義、第二陣を安田能元、後詰に水原親憲とし、鴫野を攻略。守将の井上頼次を討ち取ったが、大坂城から大野治長率いる援軍が襲来。一陣の須田が崩され負傷、後詰の水原率いる鉄砲隊が大野隊を射撃して足止めしたところを二陣の安田能元が大野隊に突撃して撃破した。大坂城からの援軍渡辺糺は上杉鉄砲隊の轟音を聞いただけで撤退した。鴫野から大和川を挟んだ今福では佐竹勢が柵を奪取していたが木村重成、さらに後藤又兵衛基次が来援し、佐竹の家老渋江政光は戦死した。窮地に陥った佐竹義宣は景勝に救援を依頼。上杉軍が大和川に出て豊臣方に銃撃を加えると豊臣方は撤退した。戦いの中、景勝は鴫野の守備を堀尾隊と交替せよという家康の命令を「弓箭の家に生まれ先陣を争い、今朝より身を粉にして奪取した持口を上意といえど他人に任せることはできぬ」と拒否した。この戦いで兼続や景明、水原らが感状を賜ったが、水原はあえてその場で感状を開封してわざと無礼を働き「この戦いは子どもの石合戦のようなもの」「こんな花見同然の合戦で感状をいただけるのはおかしなこと」と言い放った。安田は感状を賜らなかったが「殿のために戦ったのであり、大御所や将軍のために戦ったのではない」と語った。これらの言動は反徳川の行動で上杉家を窮地に追いやりながら、幕府成立後は家康の懐刀本多正信と親交を結んで影響力を保持し、病弱な息子景明にも感状を賜った兼続への皮肉が込められたものとする説もある。

 兼続の養子本多政重も旧直江家臣団を率いて前田家に仕え、大坂の陣に参戦していた。12月4日政重は真田信繁が守る篠山を攻撃するが裏をかかれて真田勢に逃げられた。これを真田勢に馬鹿にされ、挑発に乗った政重は真田信繁が守備する真田丸にに攻めかかるが、城壁に取り付いたところ激しい銃撃を受けて大損害を受けた。この影響で前田勢だけでなく井伊勢、越前松平勢も大坂城に攻めかかり撃退され、徳川方は大きな損害を受けた。