「直江兼続の誕生」
上杉景勝を支えた智将、直江山城守兼続(1560〜1619)は坂戸城(新潟県南魚沼市六日町)の上田長尾家に仕える樋口兼豊の長男として生まれた。幼名は与六。父の樋口兼豊は元々薪炭を扱う御用人だったが才能を認められ、家老として上田長尾家の財政を任される程になったとされる。
上田長尾家は長尾家傍流で領内に上田銀山を抱え、越後と関東を結ぶ交通の要衝に城を構えており、一時は越後守護代である府内長尾家をしのぐ勢いを見せた。このため越後守護代長尾晴景は妹(仙洞院)を上田長尾家の長尾政景に嫁がせて関係を改善させた。
しかし晴景は病弱で将としての器に欠け、弟の長尾景虎に守護代の職を譲らせられる。さらに越後守護上杉定実が死去すると景虎は実質上越後の国主となる。政景は景虎に従おうとしなかったが、抗しきれずついに景虎に降って家臣の列に加わる。この長尾景虎が後の関東管領上杉謙信である。
その後、長尾政景と仙洞院の間に喜平次顕景(後の上杉景勝)(1555〜1623)が生まれた。そんな中で樋口家に生まれた与六兼続はその才を見込まれて顕景の近習に抜擢されたのである。
長尾政景が舟遊び中の事故で不審死を遂げると家臣団の上田衆は子の顕景に引き継がれる。一方、一生妻子を持たなかった上杉謙信は姉夫婦の子である顕景を養子に迎えて上杉弾正少弼景勝を名乗らせた。だが謙信には他にも小田原北条氏から迎えた上杉三郎景虎や能登畠山氏から迎えた上條政繁といった養子もいた。
1578年上杉謙信が亡くなると跡目争いが勃発。景勝は遺言により相続したと主張し、春日山城本丸を押さえる。一方景虎は城下の御館に入り前関東管領上杉憲政の支援を受ける。これを「御館の乱」という。越後を二分することになったこの争いは当初、実家北条氏の力により景虎が優勢だったが、景勝が武田勝頼に金品を贈って宿敵武田家と和睦し、勝頼の妹(大儀院)を妻に迎えると形勢逆転し、和解するために景勝のもとに赴いた上杉憲政と景虎の子道満丸は斬られ、景虎とその妻(景勝の姉妹)は逃亡先の鮫ヶ尾城で家臣の裏切りにあい自害して乱は終わる。
しかし、乱の後の論功行賞で上杉家の重臣直江信綱が不満を持つ家臣に斬殺される事件が起こる。信綱は惣社長尾家の出で謙信の重臣直江景綱の娘婿になっていた。景勝は有能な側近である兼続を信綱の未亡人(お船)に娶わせ、重臣である直江家を継がせた。こうして直江兼続が誕生することになる。
※上杉憲政の墓(照陽寺)

(写真上)関東管領上杉憲政の墓
米沢の照陽寺には関東管領上杉憲政の墓がある。上杉憲政は北条氏康に敗れ、嫡男龍若丸を置き去りにして関東を逃れ(龍若丸は氏康に処刑された)、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、上杉姓と関東管領を譲った。その後は越後府内の御館に住み、上杉謙信の庇護下にあった。ところが謙信が亡くなり、謙信の養子である景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)の跡目争いが始まると憲政は宿敵北条の人間にも関わらず景虎を御館に迎えて春日山城の景勝と敵対することになる(御館の乱)。当初、景虎方には北条氏政、武田勝頼が味方したため優勢だったが、景勝は勝頼の妹との結婚と城の割譲、黄金の譲渡などを条件に武田と和睦。関東の北条勢は雪のため援軍がままならず、戦局は景勝有利に傾いて御館は総攻撃を受ける。上杉憲政は和議を求めて景虎の子道満丸を連れて景勝のもとを訪れようとするが景勝軍に包囲されて道満丸と共に斬られた。憲政に対する評価は「臆病な大将」「甘やかされて育ち、わがままだった」などと辛辣である。彼の流転人生同様、墓も流転の道を辿り、上杉家の転封と一緒に移動した末、米沢に落ち着いた。
照陽寺の地図
「越後時代」
1581年新発田重家が織田信長に内通して謀反を起こす。1582年には同盟者の武田勝頼が織田に滅ぼされ、ついに柴田勝家率いる織田軍が上杉を滅ぼさんと攻め込んできた。1582年最前線の越中魚津城は織田軍の猛攻により全滅の憂き目を見る。しかし魚津落城の前日「本能寺の変」が起こり、織田信長は家臣である明智光秀に討たれた。慌てた織田軍は撤退し、越後は危機を脱した。
羽柴秀吉が柴田勝家らを討って織田信長の後継者としての地位を固めると上杉家も秀吉と手を結ぶ。1585年には越中越水城で景勝・兼続主従と秀吉・石田三成主従が面会した(越水の会)。この時、直江兼続と石田三成が親交を結んだため、後に会津征伐と三成の挙兵に際しては二人が示し合わせたのだとも言われる。
秀吉と手を結ぶと新発田攻めを本格化させ、重要拠点の新潟・沼垂を攻略。1587年ようやく新発田重家を滅ぼして領内を安定させた。1589年には佐渡を平定。出羽庄内では上杉の武将である本荘繁長が最上義光を撃退し、越後・佐渡・出羽庄内にわたる広大な領国を形成する。
こうして上杉家は豊臣政権下でも重きをなし、上杉景勝は五大老の一人に列する程であった。
「会津移封」
1598年上杉家は越後の替わりに会津・米沢領を与えられ百二十万石の大名となる。そのうち四分の一に当たる米沢三十万石が兼続に与えられ(これは兼続の与力を含めての石高で兼続自身の所領は六万石という)米沢城主となる。
そもそも米沢は伊達政宗の本拠地で、会津は政宗が葦名との激しい戦いを経て得た領国である。秀吉は政宗を岩出山に移し、蒲生氏郷を会津に配置した。氏郷は織田信長の婿であり、天下も狙っていたという。秀吉は氏郷を中央から遠ざけつつも東に伊達、北に最上、西に上杉と外様に囲まれた会津に配置して抑えとした。ところが氏郷は1595年40歳の若さで急死。茶人でもある氏郷が茶の席で政宗に毒を盛られたとも言われた。子の秀行はまだ13歳。中山城主蒲生郷可が米沢城主蒲生郷安を攻撃しようとするなど家臣同士の争いが続き蒲生家は領地を没収され、上杉家が会津に入ったのである。
その1598年豊臣秀吉が病死。次の天下人と目される徳川家康の専横が始まる。石田三成は佐和山城に蟄居。一方、上杉家は会津若松郊外に神指城を築城したり、最上領のため孤立していた庄内と米沢を結ぶ朝日軍道を整備するなど軍事行動を取る。最上義光らから上杉家の動向を聞いた家康は西笑承兌を通して上杉家を詰問する。これに対して兼続は世にいう「直江状」を送り返して家康を挑発した。家康はこれに怒り、会津征伐に向かった。
1600年6月24日家康の会津征伐に乗じて石田三成が挙兵したとの報が入る。家康は翌日、小山で軍議を開き、会津征伐を取りやめて関ヶ原に向かった。その25日伊達政宗は白石城主甘糟景継の不在を突いて上杉家の白石城を攻略している。その後は動きがなく8月に入ると会津征伐のため山形に集まっていた奥羽諸将も帰り、事実上上杉を牽制する役割は伊達政宗と最上義光に委ねられた。
※朝日軍道
最上義光の領地によって分断された米沢と庄内の上杉領を結ぶために開削された山岳路。長井市草岡から葉山、朝日岳の尾根に沿う形で庄内の鱒淵に至る。秘密裏に開削しようとしたらしいが朝日岳修験道の拠点であった大沼浮島稲荷(朝日町)からこの動きが最上義光に報告されている。慶長出羽合戦後、東禅寺城の開城で志駄義秀が庄内から米沢に逃れる際、この朝日軍道を越えたという。
「慶長出羽合戦」
9月になると兼続は山形城の最上義光を攻略すべく動き始める。最上領のために庄内は上杉領の中でも孤立していたし、最上義光はかつて庄内を巡って上杉家臣本荘繁長と激しく争った仇敵である。義光も自らが狙われているのを察し、上杉方に嫡男義康を人質に送るから最上を攻めないように懇願しつつ、裏では秋田実季と連絡を取って上杉を挟み撃ちにせんと動いたという。こういった動きを知った兼続は油断ならない最上義光を滅ぼさんと決意し、最上攻めを開始する。
9月8日直江兼続は二万四千の軍を指揮して最上領への侵攻を開始。兼続率いる本隊には春日右衛門元忠、色部修理介光長、水原常陸介親憲、篠井弥七郎泰信、上泉主水正泰綱、前田慶次郎利益らの武将が従い、萩野(白鷹町)から狐越といわれる白鷹山北側の高原地帯の道を抜けて畑谷城(山辺町)・長谷堂城(山形市)を経て山形城に向かい、倉賀野綱元率いる別働隊が小滝(南陽市)から山元(上山市)の小白府街道沿いに長谷堂城へと向かった。中山城(上山市)の横田式部旨俊、清水三河守康徳、本村造酒丞親盛らは米沢街道沿いに上山城(上山市)へと進撃し、高畠からも柏木峠越えで上山城攻撃の別働隊を出した。
庄内からは尾浦城(鶴岡市)の下吉忠が六十里越を越えて白岩城(寒河江市)・谷地城(河北町)を攻略し、東禅寺城(酒田市)の志駄義秀は最上川を遡り最上領に攻め込んだ。北では横手城の小野寺義道も上杉に呼応して湯沢城(湯沢市)を守る楯岡満茂を攻撃し、三方から最上義光を攻め立てた。
一方、最上軍は七千余の軍勢のうち一部を庄内攻略に差し向けてしまったため圧倒的に少ない兵力で兼続を迎え撃つこととなる。義光は兵力の集中を図るため小城からの撤退を指示した。だが兼続本隊の進路に立ち塞がる標高549mの畑谷城では守将江口五兵衛光清は三百余という僅かの兵力ながら義光の命令を無視して籠城を続けた。
11日兼続は妹婿の色部修理亮光長を先陣に畑谷城を攻撃開始。江口は降伏勧告も無視して上杉軍に百名ほどの死傷者を出させる程に奮戦したが、9月13日ついに全滅して畑谷城は陥落し、義光が出した援軍の将飯田播磨も戦死して最上方は五百余名が討ち死にした。
※畑谷城址
 
(写真左上)畑谷城址に立つ江口光清の碑。(写真右上)長松寺にある江口光清の墓。
慶長出羽合戦において直江兼続は主要な道筋である上山からではなく、敢えて山越えの難所だが米沢領から最短で山形に到達する狐越経由で最上義光を攻めた。それだけ兼続は短期決戦を意図していたものと思われるが、これに立ちはだかったのが畑谷城を守る江口五兵衛光清(道連)である。江口光清は主君義光に付き従い、主君とともに連歌を詠むなど文武両道の武将であった。義光は畑谷城を放棄して山形に退去するよう指示したが江口は武士の意地として退去命令を拒み、三百五十ばかりの僅かな兵のみで畑谷城で兼続率いる二万の上杉軍を迎え撃った。直江兼続も降伏を促したが江口は忠義を貫いた。9月11日色部修理亮光長を先陣に上杉軍の攻撃が始まるが、江口は川をせき止めて城の周りを沼地にして抵抗を続け、上杉方は百名の死傷者を出す。兼続は堰を決壊させて対処し、9月13日総攻撃をかけた。有名な前田慶次もこの時武功を挙げたという。上杉の猛攻の前についに畑谷城は落城して江口光清は自害し、畑谷は撫で斬りの憂き目を見た。畑谷城下の長松寺には江口五兵衛光清の墓と彰徳碑が立っている。
畑谷城の地図
続いて兼続は山形盆地に面する西部丘陵地帯に進出し、正面に長谷堂城が見渡せる菅沢山に本陣を置く。長谷堂城は標高227mの独立丘陵にある要害で、長谷堂城が陥落すれば平地に築かれた山形城は防衛線を失う。一方、兼続率いる上杉軍本隊は二万余の大軍である。義光は重臣である志村伊豆守光安に副将として剛勇で聞こえた鮭延越前守秀綱を付けて長谷堂城を守備させた。
14日兼続は長谷堂城包囲した。義光も須川東岸の若宮に本陣を置き、上杉軍の山形侵入に備えた。翌15日上杉軍の水原親憲率いる鉄砲隊が谷柏を経て清水義親、楯岡光直ら須川の最上軍を攻撃して最上軍は三百名が戦死。義光は嫡男の最上義康を伊達政宗に遣わし救援を求めた。
16日兼続は長谷堂城に力攻めを仕掛けるが志村光安はこれを防ぎきる。逆に家臣の横尾勘解由・大風右衛門らに二百余名の決死隊を預けて上杉軍の寄せ手で兼続の部将春日元忠に夜襲をかけて上杉軍を大混乱させる。
17日兼続は春日に命じて長谷堂城に猛攻を仕掛けるも撃退され、さらに青田刈りして挑発するが城方はその手に乗らなかった。逆に副将の鮭延秀綱が虚を突いて攻撃し、上杉本陣を脅かす戦いぶりを見せたという。兼続も「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と賞賛した。
最上家の危機に際し、山形城郊外の南館に住んでいた最上義光の妹で伊達政宗の母義姫は伊達に援軍を催促し、政宗もついに援軍の派遣を決意した。政宗は叔父の留守政景に兵三千を預けて援軍を差し向けた。22日伊達軍は山形城東方の東沢に着陣するが様子を見て動かなかった。一説にはこの時、9月15日関ヶ原の戦いで石田三成が敗れたという情報が伊達から最上へもたらされたともいい無駄な戦闘を避けたのかも知れない。
半月が過ぎても城を落せない上杉方は焦り、9月29日上杉軍の猛将で新陰流の剣豪でもある上泉主水正泰綱が戦死した(一説に上山攻めで討死したともいう)。さらに9月15日関ヶ原にて石田三成が敗北していたという知らせが上杉方に届く。一変して窮地に陥った兼続は撤退を決断した。富神山山麓から畑谷方面に撤退を始めた兼続に最上義光は追撃を開始。上杉方は自害を覚悟した兼続を前田慶次郎が諌めて兼続を守るため奮戦したといい、水原親憲率いる鉄砲隊の射撃で兼続を守りつつ撤退を続ける。なおも猛追する最上義光に鉄砲隊が火を噴き、義光の側近筑紫喜吽らは鉄砲に撃たれて戦死し、義光も兜に被弾する。義光は追撃を断念し、10月3日兼続は荒砥城に帰還して撤退戦は終了した。
※長谷堂城址
 
(写真左上)山頂の長谷堂城址の碑。(写真右上)最上三十三観音の一つ長谷堂観音。

(写真上)長谷堂城址山頂から山形城を望む。

(写真上)長谷堂城の城郭を復元した地図。

(写真上)菅沢の直江兼続本陣跡にある長谷堂の古戦場図。
 
(写真左上)直江兼続本陣跡から望む長谷堂城址。(写真右上)上泉主水正泰綱が戦死した主水塚。

(写真上)手前が菅沢の丘、奥が富神山。撤退する直江兼続を最上義光は富神山麓で追撃した。
長谷堂は昔から山形南西を守る要衝の地で戦場になってきた。1514年置賜を支配する伊達稙宗が最上義定を攻めて長谷堂で最上軍を撃破し、一時最上氏を伊達の傀儡政権にまでした。
長谷堂で最大の死闘が展開されたのが1600年の関ヶ原の戦いにともなう「慶長出羽合戦」である。上杉景勝の重臣直江兼続は長谷堂城西方の菅沢山に本陣を置き、長谷堂城を包囲した。城を守る志村伊豆守光安と鮭延越前守秀綱は果敢に戦い、夜襲等で上杉軍を混乱させながら半月にわたり城を守り続けた。山形城の最上義光は須川東岸に陣を置き、伊達政宗からの援軍も得た。9月29日には上杉軍の将で新陰流剣豪でもある上泉主水正泰綱が最上軍に攻めかかるが討死した。上泉の討死した場所には「主水塚」が残る。
そんな時、関ヶ原で西軍が敗れたとの報が届き、直江兼続は撤退を決断する。10月1日兼続が撤退を開始すると最上義光は追撃を開始し、富神山麓で兼続に襲いかかる。だが水原親憲率いる上杉鉄砲隊の射撃を受け、義光は側近が戦死した上に自らも兜に銃弾を受けて追撃を断念。上杉軍は撤退戦に成功した。
直江兼続が本陣を置いた菅沢山は現在「すげさわの丘」という住宅地になっている。「主水塚」は長谷堂城と菅沢を結ぶ中間に位置する。
長谷堂城の地図
※前田慶次供養塔(堂森善光寺)
 
(写真左上)米沢市堂森の善光寺。(写真右上)かぶき者で知られた前田慶次の供養塔。
米沢市堂森の善光寺は善光寺阿弥陀堂別当寺として大同二年(807年)開基されたという。歴史が古く伊達家や上杉家が入部する以前から信仰を集め、置賜の地頭長井氏の祖、長井時広夫妻の坐像も残されている。
善光寺でも有名なのが前田慶次利貞(利益)の供養塔である。滝川一益の甥にして前田利家の兄、利久の養子であるとされ、数々の奇行と逸話に彩られた傾き者として多くの小説に取り上げられて有名であるが謎の多い人物である。主君で叔父の前田利家の下を出奔し、上杉家の家風を気に入って上杉家に寄食したという。
1600年の慶長出羽合戦では直江兼続に従い畑谷城、長谷堂城の戦いに参加。撤退戦で兼続が自害を覚悟した時、これを諌めて兼続を守り朱槍で奮戦したという。戦後は米沢郊外の堂森に隠棲したといい慶次郎が使ったと伝えられる慶次清水も残る。また文化人で『前田慶次道中日記』を書き残したり、直江兼続らと亀岡文殊での歌会に参加している。
慶次の物とされる甲冑が米沢の「宮坂考古館」に保管されている。
堂森善光寺の地図
※荒砥城址

(写真上)荒砥城跡に建つ八乙女八幡宮。
荒砥城址には八乙女八幡宮が建っている。後三年の役の際、源義家がこの地に京都岩清水八幡宮を勧請し、八人の乙女の舞を奉納したことから八乙女丘、八乙女八幡宮と称するようになったという。奥州藤原氏の時代、この丘に荒川次郎が築城し、八乙女城と称したとされる。境内には「八乙女種まき桜」があり、荒砥城主の桑島和泉守が庭先に植えたものという。
慶長三年(1598年)上杉景勝が越後から移ると対最上の最前線として重臣泉沢久秀が城主となる。慶長出羽合戦においては長谷堂城の戦いから撤退した直江兼続が荒砥城に帰還している。慶長六年志駄修理義秀が城代となる。江戸時代は鮎貝城同様、御役屋が置かれて御役屋将が在番した。周辺には空堀跡の一部が残り、蛇井戸に祈ると水が溢れて堀を満たし、敵の人馬を防いだという伝説も残る。
荒砥城の地図
一方、中山城から上山城攻めに向かった軍である。上山城主の里見越後は上杉に内通していたともいわれるが、この時は山形に留め置かれて息子の里見民部が守備していた。里見民部は上杉軍の進路にある物見山に伏兵として草刈志摩守を配置した。本村親盛率いる上杉軍は17日現在の前川ダム付近の間道を抜けて赤坂の地に出るが、里見民部率いる上山勢と草刈の伏兵に挟撃されて討ち死にした。横田式部と清水三河守は街道沿いの掛入石から川口の地に出て村々に放火するが上山勢の激しい抵抗で撃退された(物見山の戦い)。さらに草刈志摩が追撃して中山領まで攻めてきたが上杉方はこれを鉄砲で討ち取り撃退した。
※中山城址と物見山の戦い
 
(写真左上)中山城址の天守山に残る碑。この天守山麓に米沢藩の御役屋が置かれた。
(写真右上)中山城址天守山の石垣。
 
(写真左上)掛入石。米沢領と上山領の境界であった。岩の後ろを山形新幹線が通る。
(写真右上)物見山の戦いで討たれた将兵を弔った「首塚」。中山から前川ダムに抜ける間道沿いにある。
中山は今でこそ上山市だが、もともと置賜郡に属し、村山郡との境界であった。このため中山の地は度々戦場となっており、中山城は北の最上氏に対する最前線として重要視された。戦国時代の永禄・元亀年間には伊達家臣中山弥太郎がこの中山城を守備していたという。
天正二年(1574年)には最上家の御家騒動に介入した伊達輝宗が最上義光と戦い、新宿(二井宿)から上山盆地に入って楢下の地を奪い、高松の地を焼いた後、中山城へ引き揚げている。
1588年、伊達政宗と最上義光が中山で対陣し、一触即発の危機に陥った際、政宗の母で義光の妹である義姫が両軍の間に居座って戦いを断念させたという話もある。
伊達政宗が移封されると置賜は蒲生氏郷の領地となり、米沢城に蒲生郷安、中山城に蒲生郷可が配された。しかし蒲生郷可は郷安と仲が悪く、宮内城を改修して米沢城攻撃を図ったという。
慶長三年(1598年)上杉景勝の会津移封で置賜は上杉領となり、中山城主には横田式部旨俊が配された。また武田旧臣で上杉家に移った清水三河守康徳が中山城将に入った。
1600年関ヶ原の戦いにともない、出羽の地では最上義光と上杉家臣直江兼続が激突した「慶長出羽合戦」が展開された。中山城からも横田旨俊と清水康徳に兼続直属の与板衆である本村(穂村)造酒丞親盛を加えて上山城に進撃することになった。上山城を守る里見民部は中山との境界にある物見山に草刈志摩守を伏兵として配置しておいた。
9月17日本村親盛と清水康徳が率いる隊は中山から現在の前川ダムを経て赤坂の地へ抜ける間道を利用して上山方面に攻め入った。ところが里見民部は藤吾でこれを迎撃し、山間路で隊列が伸びているところを背後から伏兵に襲われてしまい乱戦の中、本村親盛は討死。清水もやっと中山へ逃げ帰った(物見山の戦い)。横田の隊は掛入石から街道沿いに上山方面に攻め入って焼き討ちするが、こちらも村々の激しい抵抗に敗北した。
さらに草刈志摩守は上杉兵を追って中山にまで攻め入ったが広河原で鉄砲射撃を受けて討死した。
この一連の戦いで多くの将兵が戦死し、中山から前川ダムへ抜ける間道の途中に葬り「首塚」として祀っている。
領境の掛入石は越境を図る者が隠れるために掛け入ったことから「掛入石」と呼ばれたが、この戦いで伏兵が隠れたことから「隠れ石」とも呼ばれたという。1896年奥羽線の工事で誤って一部が割られてしまったという。
江戸時代には米沢藩の重要な支城には御役屋という政庁が置かれ、中山城では三段の郭で構成された天守山の麓に御役屋を置き、御役屋将を配して藩境を守らせた。城下の足軽屋敷跡には清水三河守とともに中山に入った足軽らが移住したという。
中山城の地図
首塚の地図
掛入石の地図
伊達政宗は兼続が長谷堂に釘付けなのを見て9月25日鬼庭綱元に湯原(七ヶ宿町)を攻撃させて二井宿峠から旧領米沢への侵攻を試みた。
さらに伊達政宗は兼続が長谷堂から撤退して後方の心配が取り除かれると福島の上杉領に侵攻した。10月6日宮代で本荘繁長を破り、繁長が福島城に籠城すると政宗は城攻めを行うが落せなかった。撤退する途中で伊達軍後方の小荷駄隊が梁川城の須田長義に襲撃され、上杉方に仕掛けた内通工作も発覚したため翌7日に政宗は素早く撤退した(松川の戦い)。
※二井宿峠(玉ノ木原古戦場)

(写真左上)伊達と上杉が戦った玉ノ木原古戦場。
奥羽山脈を越える峠のうち二井宿峠は比較的低いため、古くから出羽の入口として用いられた。高畠町には縄文遺跡や古墳が多く見られ、いち早く文化が流入したと思われる。
峠の鞍部で七ヶ宿側に広がる玉ノ木原は九代伊達政宗(儀山公)が置賜地方を支配する地頭、長井道広を攻略するための城館を置いた場所という。伊達氏が置賜地方を攻略すると、桑折西山城と高畠城を拠点とした伊達氏にとって二井宿峠は重要な峠となった。
関ヶ原の戦いに際して伊達政宗は上杉景勝と戦う。政宗は鬼庭綱元に命じて湯原を攻略し、さらに二井宿峠から旧領米沢への侵入を図り上杉軍と戦った。この場所が玉ノ木原古戦場である。地元の武士達は九代政宗以来のつながりで伊達に味方したという。
江戸時代には仙台藩の領地は峠を数百m越えて高畠側に入り込んでおり「伊達の無理境」と呼ばれていた。これは玉ノ木原の戦いで伊達が攻め取った数百mが伊達家の領地になったからという。
二井宿峠の地図
一方、庄内の上杉軍であるが志駄義秀は酒田の東禅寺城に帰還できたものの、下吉忠には撤退の報せが届かず取り残されてしまい最上義光に降伏する。その後庄内の上杉領は最上軍の攻撃を受け、1601年4月24日志駄義秀が東禅寺城を明け渡して完全に最上義光の支配下に入り、上杉と最上の戦いは収束した。
※亀ヶ崎城址(東禅寺城址)
 
(写真左上)酒田東高校敷地の亀ヶ崎城址の碑。(写真右上)亀ヶ崎城址に隣接する八幡神社。
酒田の亀ヶ崎城は1478年大宝寺の武藤氏が度々離反する砂越氏討伐のために築いた東禅寺城が始まりという。東禅寺城主としては東禅寺筑前守義長が知られる。東禅寺筑前守は武藤義氏の妹婿で前森蔵人を名乗っていた。武藤義氏は越後の上杉氏の力をバックに庄内を強権的に支配しようとしたため家臣や領民から「悪屋形」と嫌われた。そんな中庄内進出を企む山形城の最上義光の策謀により砂越氏や来次氏が義氏に対して反乱を起こす。義氏は前森に兵を預けて討伐しようとするが、前森は預けられた兵を率いて主君武藤義氏を討った。その後、前森蔵人は東禅寺筑前守義長を称して東禅寺城主となったという。武藤氏は義氏の弟丸岡兵庫が継ぎ武藤義興を名乗って上杉家臣本荘繁長から養子義勝を迎えた。だが庄内を支配しようとした最上義光は東禅寺筑前守の手引きで義興を滅ぼし、義勝は温海の小国城に敗走。本荘繁長は息子義勝の援軍として介入し、十五里ヶ原の戦いで本荘・武藤軍と最上・東禅寺軍が決戦に及んだ。東禅寺筑前守は弟右馬頭に兵を預けたが敗北。東禅寺筑前守は戦死。右馬頭は本荘繁長の本陣に斬り込むが繁長を倒せず斬り死にした。最上軍も重臣氏家尾張守守棟の嫡男が戦死するなど大きな損害を被った。
その後、庄内は本荘繁長の支配を経て上杉領となり東禅寺城主として甘粕備後守景継、続いて直江兼続の義兄弟志駄修理亮義秀が酒田を統治した。1600年慶長出羽合戦において志駄義秀は兼続の命で庄内の上杉軍を率いて最上川を遡り、最上義光を攻めた。しかし兼続本隊が長谷堂城を守る志村伊豆守光安と鮭延越前守秀綱を攻略できず半月が過ぎ、関ヶ原での西軍敗北の報が届くに及んで撤退することになる。だが尾浦城から六十里越で最上攻めに参加した下治右衛門吉忠は撤退に失敗して最上義光に降伏。逆に義光の庄内攻めの先鋒となって志村光安とともに攻め込んできた。志駄義秀は最後まで抵抗を続けたが、1601年4月24日ついに東禅寺城を開城し、雪の朝日軍道を越えて米沢へ逃れた。
最上義光は念願の庄内支配を実現すると寝返った下吉忠を尾浦城主に戻し、東禅寺城主には志村光安を任命した。1603年酒田港に巨大亀が上陸すると志村光安はこれを義光に報告した。義光はこれを吉兆と喜んで東禅寺城を亀ヶ崎城と改称させた。同時に大宝寺城が鶴ヶ岡城、尾浦城が大山城と改められている。だが最上家中は吉兆と裏腹に争いが激化し、義光の長男最上義康が廃嫡された上に庄内丸岡にて討たれ、1614年最上義光が死ぬと次男で跡を継いだ親徳川の最上家親に親豊臣の三男の清水義親が反乱する。志村光安の跡を継いだ志村光清は清水の意を受けた一栗兵部高春の謀反により下吉忠とともに鶴岡城内で暗殺された。一栗は逃亡するが鶴岡城代新関因幡守久正に討たれ、清水も兄家親に討たれた。しかしその後も最上家は最上家親が変死し、子で13歳の義俊が跡を継いだため、義光四男の山辺義忠を後継に推す楯岡光直、鮭延秀綱と家親の死は陰謀と主張する松根光広の争いが激化し、家臣団の争いが収まらず幕命により改易される。
最上氏改易後、酒井忠勝が庄内藩主となった。忠勝は居城を亀ヶ崎城にするか鶴ヶ岡城にするか迷った末、酒田は港町で大いに栄えているが鶴岡は居城を置かないと衰退するかも知れないということで鶴岡に居城を置いた。だが酒井氏は徳川四天王筆頭で譜代中の譜代、周囲の外様大名を監視する役割から亀ヶ崎城も存続を許され、江戸時代を通じて城代を置き支配した。
明治になると酒田には亀ヶ崎城には民政局置かれ酒田県庁となった。のちに合併で山形県が成立すると亀ヶ崎城は解体され、現在は城址に酒田東高校が建っている。
亀ヶ崎城の地図
「米沢三十万石」
8月になると上杉家を米沢三十万石に移封する沙汰が下る。石高が四分の一に激減するも上杉家ではほとんど家臣を解雇しなかったため、五千もの家臣団が米沢に移住した。兼続は屋敷の配分などに取り組み、現在の米沢の基礎となる街づくりを行った。下級武士については南原の原野に配置して半農半士の原方衆として農業生産にも役立てつつ米沢城南方の守備も担った。
兼続は越後でも中ノ口川改修など治水に力を入れたが、米沢でも松川の氾濫を防ぐため「谷地河原堤」(後に直江石堤と呼ばれる)という堤防を築いた。さらにその上流の猿尾堰から水を引いて米沢の西側に作った堀立川に流した。松川と堀立川は農業用水としてだけでなく米沢の東西を守る防衛線としての役割を果たした。他にも木場川などを掘り米沢の生活用水も整備した。猿尾堰の傍には兼続が洪水と旱魃の防止を願って建てたという「龍師火帝」の碑が残る。
軍事面では鉄砲を重視して硫黄が手に入る白布高湯に鉄砲鋳造工場を作り、大坂冬の陣で上杉鉄砲隊の活躍に繋がった。白布温泉には「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑が立つ。
また領内の街道に一里塚を置くなどの整備も行っている。
※米沢城址(松岬公園)
 
(写真左上)上杉謙信像。(写真右上)上杉鷹山像。
 
(写真左上)上杉謙信公を祀る上杉神社。米沢城奥御殿跡にあり、伊東忠太が設計した。
(写真右上)上杉鷹山公を祀る松岬神社。上杉景勝公と直江兼続の主従も祀られる。
他に細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政と鷹山の家臣も合祀されている。敷地は上杉景勝公の御殿跡。
 
(写真左上)上杉神社参道の桜。(写真右上)上杉神社参道の橋と桜。
 
(写真左上)上杉神社参道の「伊達政宗生誕の地」。(写真右上)鷹山公が暮らした餐霞館の址。
 
(写真左上)旧上杉伯爵邸(上杉記念館)。中条精一郎の設計。
(写真右上)戊辰戦争において新潟で討死した米沢藩総督、色部長門の追念碑。
米沢城の歴史は鎌倉時代に置賜地方を支配した長井氏が居館を置いたことに始まる。
南北朝時代には伊達氏が奥羽山脈を越えて置賜地方を攻略し、長井氏を滅ぼした。その後伊達氏はは伊達郡の西山城と置賜郡の高畠城に拠点を置いていたが、十五代の伊達晴宗が「天文の乱」で父稙宗を隠居させて当主になると居城を米沢城に移している。子の輝宗、孫の政宗と米沢を居城とし、伊達政宗は奥羽の独眼龍と恐れられながら南東北一帯に大いに勢力を拡大した。しかし政宗は豊臣秀吉の命で岩出山に移封され、代わりに蒲生氏郷が会津・米沢を支配する。
氏郷は会津の黒川城を若松城と改称し、会津若松の地名を生む。米沢城も松岬城(まつがさきじょう)と呼び、現在の米沢城の別名となる。
1598年、氏郷没後の蒲生家臣団の争いで蒲生家に代わって越後の上杉景勝が会津・米沢に移された。米沢には景勝の右腕である智将直江兼続が入った。
上杉家は徳川家康に歯向かい会津征伐を招き、関ヶ原の戦いで石田方について最上義光や伊達政宗と戦ったため、会津などを失い百二十万石から米沢三十万石に領地を減らされ、米沢城を居城とするようになった。直江兼続は大勢の家臣が米沢に移住したため、米沢の町づくりや治水、農業開発などを行い米沢繁栄の基礎を築いた。
現在、米沢城址は濠で囲まれた本丸が松岬公園として整備され、奥御殿跡には上杉家の祖にして戦国の名将、上杉謙信を祭る上杉神社が鎮座している。境内に上杉神社の宝物殿である稽照殿もあり、上杉謙信、景勝、鷹山、直江兼続らの遺品が保管されている。
濠の東側には藩政改革を成した名君上杉鷹山を祭る松岬神社があり、南側には上杉記念館(旧上杉伯爵邸)や上杉鷹山が隠居後三十八年間、七十二歳で逝去するまで住んだ御隠殿「餐霞館」の跡が残されている。「餐霞館」は本城の南にあたることから南亭とも称した。有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」は「餐霞館」の一室に掲げた壁書の終りの部分だという。
城の南には戊辰戦争で米沢藩兵を率いて新政府軍と戦い、新潟市関屋で討死した色部長門守を顕彰する「色部長門追念碑」もある。色部長門は総督として新潟港を守備したが、背後から上陸した新政府軍の攻撃に遭い戦死した。戦後、米沢藩は戦争責任を死んだ色部に背負わせて難を逃れたのである。色部が戦死した新潟市関屋の新潟高校にも「色部長門君追念碑」が残されている。
米沢城の地図
※直江石堤(谷地河原堤)と龍師火帝の碑
 
(写真左上)直江石堤の碑。(写真右上)直江兼続が建設した谷地河原堤。
 
(写真左上)龍師火帝の碑。(写真右上)猿尾堰。
上杉家が米沢に入部した際、最上川上流の谷地河原は川底が浅く、流れが急なために氾濫すると米沢の中心部まで被害を及ぼすことがあった。このため上杉家の重臣直江兼続は原方衆など下級武士を動員して谷地河原に長い堤防を築いた。これを「谷地河原堤」といい、その後も改修を繰り返して現在残るものは上杉治広時代に改築されたものである。後に兼続を称えて「直江石堤」と呼ばれるようになった。
現在は直江堤公園として米沢市民の憩いの場となっている。
また直江石堤の上流には兼続が慶長年間に猿尾堰を築き、近隣の灌漑用水を確保した。その際に洪水や旱魃から人々が守られるよう水の神「龍師」と火の神「火帝」の加護を願って「龍師火帝」の四文字を線刻した大石を川の中央に据えて祈ったという。後にこの「龍師火帝の碑」は川の中から引き上げられ河川工事に伴い猿尾堰の傍に移された。
直江石堤の地図
龍師火帝の碑の地図
※白布温泉
 
(写真左上)「東屋」前にある直江兼続公鉄砲鍛造遺跡の碑。
(写真右上)茅葺の旅館「西屋」。2000年の火災前は茅葺の「中屋」「東屋」も隣接していた。

(写真上)天元台。春になると雪が残り写真のようになり、「白馬の騎士」と呼ばれる。
白布温泉は西吾妻の登山口に当たり、茅葺の旅館や天元台スキー場、観光道路西吾妻スカイバレーなどで知られる観光地である。
白布温泉は正和年中、出羽国の佐藤宗純が諸国巡錫の際に発見したとも、関部落の猟師が白い斑のある大きい鷹が湯浴みをしているのを見つけ、白斑(しらふ)の鷹湯と命名し、のちに白布高湯となったともいわれている。
白布高湯は蔵王高湯(蔵王温泉)、信夫高湯(吾妻高湯温泉)とならぶ奥州三高湯の一つとされた。
江戸時代になり米沢藩では1604年(慶長九年)直江兼続が近江国友村や堺から鉄砲師を集め、森林と温泉があって鉄砲造りに必要な木炭と硫黄が調達でき、なおかつ山奥で密かに製造できる白布温泉に鉄砲工場をつくった。こうして整備された上杉鉄砲隊は「大坂冬の陣」の「鴫野の戦い」で活躍している。
白布温泉の地図
※一里塚の松

(写真上)赤湯の入口に残る「一里塚の松」。
米沢街道を北上して吉野川を渡る手前、赤湯温泉の入口に当たる場所に「一里塚の松」が残る。1604年米沢藩の直江兼続が米沢大町札辻を起点に藩内の主要街道につくらせた一里塚の一つで、かつては道の東側にもあったという。
一里塚の松の地図
「文化人兼続」
領国経営に努める一方で兼続には文化人としての側面があり、城を落すとまず書庫を探して書物を確保したと伝えられる程で1607年『文選』の「直江版」を著すなど特に漢学への造詣が深かったという。
また1602年には亀岡文殊にて歌会を催し、百首の漢詩・和歌を奉納した。前田慶次郎、安田能元、春日元忠、岩井信能、大国実頼らが参加している。
また兼続は亡くなる前年の1618年に足利学校で学んだ僧九山に禅林寺を開基させた。そこに自らの蔵書や出版物を納め「禅林文庫」となる。後に禅林寺は法泉寺と改称しするが「禅林文庫」の鎮守として境内に建てられた文殊堂は今も境内に残る。
他にも兼続は笹野観音に羽黒大権現を勧進し、関根の羽黒神社を再建し、宮内の熊野大社を再建するなど領内の神社仏閣を保護している。
※亀岡文殊
 
(写真左上)伊藤忠太設計の亀岡文殊堂。(写真右上)伊達政宗奉納の古鐘が納められた鐘楼堂。
 
(写真左上)伊達政宗が寄進した資福寺の古鐘。(写真右上)義民高梨利右衛門の供養碑。
高畠町の亀岡文殊は日本三文殊の随一とされる(日本三文殊は出羽の亀岡、大和の安倍、丹後の切戸)。
中国の南北朝時代、南朝梁の僧青巌が梁の大同二年この地に飛来して霊場となったともり、会津恵日寺の高僧徳一が中国の五台山に似ているとして大同二年(
807年)文殊堂を創建したのが始まりとも伝えられる。
亀岡文殊の大聖文殊師利菩薩は宣化天皇二年(
536年)に震旦(中国)五台山から伝来し、伊勢国の神路山に安置していたが、平城天皇の大同二年(
807年)奈良東大寺の徳一上人が勅命により亀岡に移したものと伝えられる。
亀岡文殊の鐘楼堂にはかつて伊達政宗が天正十九年(1591年)奉納した古鐘があった。この古鐘は藤原正頼が永仁四年(1296年)に鋳造したものとされ、もともと資福寺の古鐘だった。のち享保十五年待定坊が建立した鐘楼堂に納められた。この古鐘は昭和26年破損のため、原型通り鋳直されて亀岡文殊本坊横の鐘楼にある。
1602年には亀岡文殊で直江兼続や前田慶次ら上杉家の重臣が参加する歌会も開かれた。その漢詩や和歌は今も亀岡文殊に保管されている。
現在の文殊堂は米沢出身の工学博士伊東忠太の設計で、大正三年改築された。今も全国から合格祈願などに多くの人々が訪れる。
文殊堂に登る参道途中の右側に「極重悪人碑」がある。南無阿弥陀仏と朱塗りの文字が刻まれ、側面には極重悪人…と朱塗りで刻まれている。これは寛文目安越訴事件の盟主高梨利右衛門の供養碑である。二井宿村肝煎だった高梨は寛文六年(1666年)盟主として信夫(福島県)の幕府代官所に米沢藩の年貢徴収の過酷さ、専売制の不合理を訴えて幕府直轄地への編入を願ったが、そのため二井宿村の一の坂刑場で処刑されてしまう。だが人々は高梨の米沢藩批判を義挙として称え、幕府や米沢藩をはばかり、極重悪人と刻みながらも彼の供養碑を建てたのである。
亀岡文殊の地図
※法泉寺
 
(写真左上)直江兼続が創設した「禅林文庫」の鎮守として建てられた法泉寺文殊堂。
(写真右上)上杉鷹山が興譲館創設の際、設けた聖堂「先聖殿」。後に法泉寺境内に移された。
法泉寺は1618年直江兼続が足利学校で学んだ僧九山に開基させた禅林寺に始まる。兼続はしばしば禅林寺に参禅に訪れ、自らの蔵書や出版物を納め「禅林文庫」として米沢藩士の教育を図った。今も残る法泉寺文殊堂は「禅林文庫」の鎮守として慶安元年(1648年)に創建された。
元禄年間には上杉綱憲(吉良上野介の子)が学問所を創設した際に孔子を祀る聖堂「感麟殿」を建て、上杉鷹山が米沢藩の学館再興を掲げて藩校興譲館を創設した際にも聖堂「先聖殿」を設け、後に「先聖殿」は法泉寺境内に移された。
また法泉寺庭園は上杉定勝の代に京都天龍寺の庭園を模して造られ、庭園では上杉鷹山公の詩会が催されたりした。法泉寺には直江兼続の詩碑、上杉鷹山の詩碑が立っている。
法泉寺の地図
※笹野観音
 
(写真左上)笹野観音堂。(写真右上)笹野一刀彫。右は「お鷹ぽっぽ」。
笹野観音は坂上田村麻呂が安らかな世になることを願い、千手千眼観世音菩薩を祀ったのと、旅僧が霊木を刻んで笹野村の鎮守として羽黒大権現を祀ったのが始まりである。笹野山中腹に観音堂と羽黒大権現の社があったという。のちに大同元年(
806年)に現在地に本堂を建立し、弘仁元年(
810年)会津の名僧徳一上人を開山第一世として入仏供養を行った。後に宥日上人が観世音菩薩と羽黒大権現を秘仏として新しい千手千眼観世音菩薩を安置するに至り霊験あらたかな名刹として信仰を集めるようになったという。
後には伊達氏や上杉氏に厚く信仰され、天正六年(1577年)には伊達政宗が開帳供養を行った。
慶長年間、直江兼続は主君上杉景勝の祈祷師である明鏡院清順に命じて羽黒山より羽黒大権現を勧進して観音堂の裏に後神として祀った。明鏡院清順は元々、養蔵坊清順を名乗り上杉氏が庄内を支配した頃、羽黒山別当であったが、慶長五年(1600年)の慶長出羽合戦で最上義光の庄内侵攻によって羽黒山から追われて米沢に逃れていた。その後、清順は還俗して佐野玄誉を名乗り、兼続によって武士に取り立てられた。兼続は笹野観音を領内を守る拠点としても重視し、笹野観音林に鉄砲六十挺を備えたという。
安永八年(1779年)上杉鷹山により観音堂が再建され、入仏供養が行われた。
笹野観音の縁起物「笹野一刀彫」は蘇民将来という無病息災の御守りの彫刻から始まり、これにより当地には流行り病が無かったという。
笹野観音の地図
※熊野大社と宮沢城址
 
(写真左上)熊野大社の石鳥居。(写真右上)熊野大社。
 
(写真左上)安部右馬助綱吉の顕彰碑。(写真右上)安部右馬助綱吉が奉納した寛永三年の洪鐘。
宮内は日本三熊野の一つ、熊野大社の門前町として栄えた歴史ある町である。熊野大社は創立年代が不明だが大同元年(
806年)平城天皇の命により再建と伝えられ、それ以前の相当古くからあったようである。1063年源義家が紀州熊野大社分霊を再勧請して戦勝感謝したという。境内入口の大銀杏は義家が鎌倉権五郎景政に植えさせたとも伝えられる。
歴代領主の長井・伊達・上杉の諸氏も深く信仰しており、1498年伊達家臣で宮沢城主の粟野政国が社殿を再建した。宮沢城は宮内城ともいい熊野大社の北三百米の台地にあり、現在はりんご畑となっている。永禄・天正年間には伊達家臣大津美作守、大津土佐守父子が城主だった。天正十四年(1576年)には伊達政宗が大檀那となって大津美作守が熊野大社社殿を建立したという。蒲生氏の時代には武将間の争いで中山城主蒲生郷可が不仲の米沢城主蒲生郷安を攻めるため宮沢城を修理したという。
慶長三年(1598年)上杉景勝の支配下になると宮沢城には信濃飯山城主尾崎三郎左衛門重誉が移ってくる。飯山の尾崎氏は泉氏とも称し、飯山城主泉弥七郎重歳の娘が直江兼続の母という関係で重誉は兼続の従兄弟の子という。近隣の金山城主には直江兼続の妹婿である色部修理亮光長が入り、兼続の親族で固めたことから宮内・金山一帯が対最上の前線基地として重視されていたことが窺われる。尾崎重誉が移った際、信濃から和光山明神を熊野大社境内に移しており、熊野大社に残る信濃善光寺由来の品々もこの時もたらされたと考えられている。慶長九年(1604年)には直江兼続が大檀那となって社殿を建立している。
尾崎重誉に仕えた安部右馬助綱吉は熊野大社と宮内に貢献した人物である。右馬助は尾崎氏が信夫郡へ移った後も宮内に残り、慶長出羽合戦では倉賀野綱元に従って小滝口から直江兼続の長谷堂城攻めに加わり武功をあげた。また宮内の町割や吉野川の治水、北条郷の荒地の開発などに尽力した。火災に遭った熊野大社の社殿修復にも努め、寛永三年奉納した洪鐘も残されている。境内には右馬助を顕彰する碑も建っている。寛永六年には北条郷代官及び金山奉行となり金山の経営にも努めている。
熊野大社は「青苧騒動」という一揆の舞台ともなっている。上杉重定の時代には米沢藩の財政は完全に傾いていた。重定の寵臣森平右衛門は増収策として町人農民の人別銭や藩士の副業に課税したり、豪商豪農を武士へ取立て商人を財政顧問としたという。一方で権力掌握のため重臣を罷免や知行削減に追い込み、一族の栄達を図ったり公金乱用したりと藩士や領民から恨まれていた。郡代頭取でもある森は妾の兄で赤湯村の佐藤平次兵衛を赤湯御殿守と北条郷代官に取立てた。北条郷では青苧への課税はそれまで無かったが、佐藤は森に下長井と同様に課税することを進言した。これに怒った北条郷の農民は宝暦十年(1760年)一揆を起こして熊野大社に籠り、課税阻止の嘆願書を藩に提出した。森は怒って首謀者を死刑にしようとしたが竹俣当綱の取扱により減刑されて軽い処分となり、願い通り課税は取り止めとなった。
1763年森の横暴を見かねた竹俣は森を刺殺。佐藤も処刑された。藩主重定は米沢藩の返上を幕府に申し出るが却下される。竹俣は重定を見限って藩主の引退を勧告し、1767年重定は隠居。上杉治憲(鷹山)を藩主に迎えて竹俣当綱の補佐で藩政改革を行うこととなる。
熊野大社の地図
「兼続の家族」
兼続は側室を持たなかったという。そもそも兼続は直江家の婿、それも二人目の婿であり、妻のお船は年上女房で兼続没後も直江後室と呼ばれ、夫の遺志を継いで書物の出版を行ったり、藩主上杉定勝の母代わりとして深く信頼されていた賢夫人であった。お船を北条政子に比する評価もあり、上杉家中では相当の発言力があったと思われる。
また兼続の嫡男景明は病弱で両目を患っていたため、兼続が五色温泉で治療させたと伝えられる(兼続による開湯とも伝えられる)。
一方で嫡男がありながら1604年本多正信の次男政重を娘婿として迎え、直江勝吉を名乗らせている。これは西軍に与して徳川から睨まれた上杉家を守るためのものとも言われる。だが娘が亡くなり、兼続は弟大国実頼の娘を養女にした後、政重に嫁がせてまで関係を維持しようとしたが、後に政重は本多に復姓して1611年上杉家を離れて前田家に移る。
兼続の弟、大国実頼は本多政重を養子に迎えることに猛反対して使者を切り出奔。後に兄兼続が亡くなってから米沢藩に戻っている。もう一人の弟、秀兼は樋口家を継ぎ、三人の妹はそれぞれ須田満胤、色部光長、篠井泰信に嫁いだという。与板衆の志駄義秀はお船の姉妹を妻としており兼続の義兄弟である。また景明が生まれる前、本荘繁長の子を養子にしていたともいう。
結局、直江家は養子に去られ、実子景明も1615年若くして亡くなっており断絶した。
直江夫妻の墓も当初は直江家菩提寺である徳昌寺にあったが上杉家菩提寺林泉寺との争いの末に徳昌寺は破却され、墓は林泉寺に移されている。その際、直江家に属する与板衆は林泉寺への移転に納得せず、兼続の位牌は兼続の母の実家である尾崎氏(泉氏)の菩提寺東源寺に移されたという。
直江夫妻没後、幕府の動向を窺ったものか上杉家中でも兼続を奸臣扱いした時期があった。後に上杉鷹山が「直江夫妻の法要を営まないのは人情にあらず」として百回忌の法要を行って名誉を回復したという。
※五色温泉

(写真上)五色温泉の宗川旅館。
五色温泉は1300年ほど昔に役の行者が吾妻山中にて五色の湯煙が立上るのを見つけ、温泉を発見したのが始まりという伝説がある。
また上杉家の重臣直江兼続が奇病にかかり、医薬で治らなかったものが五色温泉で快癒したとも、兼続の嫡男景明が生来病弱で両目を患っていたため、1609年兼続が五色温泉に湯壷を開き湯治させたともいう。
五色温泉には1911年日本初の国設スキー場が造られ、名スキーヤーや皇族が訪れた。皇族のためのスキーロッジ「六華倶楽部」も建設されたが、戦後は返還されて昭和25年の冬期国体以降は活用されなくなり、現在は個人の所有となり仙台に移築された。歴史あるスキー場も平成10年に閉鎖された。
五色温泉の地図
※林泉寺
 
(写真左上)直江兼続夫妻の墓。(写真右上)林泉寺の門。上杉鷹山の家老竹股当綱の門という。
林泉寺は上杉謙信の祖父、長尾能景が1496年創建した長尾、上杉家の菩提寺である。上杉景勝移封の際、越後から米沢へ移ってきた。
藩主は御廟に祭られているが、林泉寺には上杉景勝夫人菊姫など歴代米沢藩主正室の廟が置かれ、上杉家の分家や子女の墓もある。また直江兼続、水原親憲、甘粕景継など名の知れた上杉家臣の墓が並んでいる。境内には上杉家の氏神春日大明神も祀られている。
林泉寺の地図
※東源寺

(写真上)東源寺。直江兼続夫妻と嫡子景明の位牌を祀る。
東源寺は直江兼続の母の実家尾崎氏(泉氏)の菩提寺で尾崎氏とともに信州飯山から移った。直江兼続夫妻の没後、直江家の菩提寺徳昌寺が林泉寺との争いで破却されると縁あって兼続夫妻と嫡男景明の位牌が祀られるようになった。また天明の飢饉の折、五穀豊穣を願って作られた五百羅漢像が安置されている。
東源寺の地図
「兼続の評価・逸話」
兼続の人となりについては様々な逸話が残る。
ある時、上杉家中の者(三宝寺勝蔵とも横田式部ともいわれる)が些細なことで下人を殺害した際、下人の親類が怒って下人を返せと騒いだ。兼続は行き過ぎを認めて慰謝料として銀二十枚を出して弔うよう命じた。だが親類は下人を返せの一点張りで埒があかないため『ならばお前達が直接行って閻魔大王に頼んで来い』と親類を殺して閻魔大王宛ての高札を立てたという。
兼続は秀吉から高く評価され「陪臣の身であるが直江山城守兼続(上杉家)、小早川左衛門隆景(毛利家)、堀監物直政(堀家)は天下の仕置きを任せられる者だ」と評されたという。しかしこれは幕末の『名将言行録』によるもので信憑性がなく、実際に秀吉がどれ程目を掛けていたのかは分からないともいう。
会津移封の際に米沢三十万石が兼続に与えられたというが、それは与力を加えて三十万石ということで兼続自身に与えられたのは六万石のみである。ちなみに関ヶ原後の上杉家はが置賜郡に信夫・伊達両郡を加えてやっと三十万石の石高である。
徳川家康からの詰問に対して「直江状」を交渉役の西笑承兌に送り返して挑戦的な態度をとって家康を激怒させて会津征伐を招いたことはよく知られるが原本が無く、一説には「直江状」は偽書ともされる。
伊達政宗が天正大判を周りに見せていたところ兼続は手にとらず扇子で裏返した。兼続が陪臣のために遠慮していると思った政宗が手に取っても構わないと言うと自分の手は謙信公の頃から采配を握るためのものでこんな不浄なもの触るわけにいかないと投げ返したという。
伊達政宗とすれ違ったときに会釈しなかったため、政宗が陪臣の身で大名に会釈をしないのは無礼だろうと咎めると、兼続は戦場では(逃げる際の)後姿しか拝見したことがなかったのでお顔を存じ上げませんでしたと返したという。
江戸初期の儒学者である藤原惺窩は兼続について「近世戦国の世に学を好んだものは上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続、赤松広通があっただけ」と当時の武将の中でも学問を好んだことを高く評価している。
一方、直江兼続は主君を誤らせ石田三成と組んで家康に刃向かい上杉家を窮地に陥れた奸臣であるという評価もある。兼続が奸臣という評価は上杉家では兼続夫妻の没後、直江子飼いの家臣達が勢力を失ってからで、反直江の家臣らが幕府の意向を窺って奸臣扱いするようになったと見られている。
兼続の甲冑は上杉神社稽照殿に保管された「愛」の前立の物がよく知られている。愛の前立の理由として愛染明王を信仰したからとか「愛民」の精神を表したものとか諸説あるが決定的なものは無い。一方、兼続が慶長出羽合戦で着用した甲冑の前立は智将兼続らしく普賢菩薩の梵字である。こちらは宮坂考古館に保管されている。
兼続の逸話・評価には上杉武士としての誇り高さ、知識豊富な文化人、厳格で優秀な民政家であることを示すものが多いようだ。 |