直江兼続の足跡を辿る

兼続の人となり
「兼続の母と尾崎氏」

 上杉景勝を支えた智将、直江山城守兼続(1560〜1619)は坂戸城(新潟県南魚沼市六日町)の上田長尾家に仕える樋口兼豊の長男として生まれた。幼名は与六。後年、重光と改名する。兼続の出自だが、後年まとめられた新井白石の『藩翰譜』によると父の樋口兼豊は元々薪炭を扱う御用人で、母は直江景綱の妹とされる。だが『上田士籍』によると樋口兼豊は家老として上田長尾家の財政を任った人物であり、樋口氏自体が木曽義仲の四天王の一人樋口兼光の末裔という家柄である。母も実は直江の出ではなく信州飯山に一大勢力を張った泉氏(源義平の末裔)の尾崎弥七郎重歳の娘蘭子であり、信州豪族との繋がりの深さも窺える。この二つの説が生まれたのは兼続がもともと直江の出であると強調し、兼続と尾崎氏との接点をぼかして幕府に伝えたからではないか。兼続と姻戚関係にあった本多正信の死後、その息子正純も失脚し、兼続を擁護する幕府の要人がいなくなった。こうした中、上杉家も関ヶ原で徳川に刃向かった全責任を「奸臣 直江兼続」に押し付けた節がある。直江家を相続する養子を立てず断絶させ、林泉寺との僧録をめぐる争いの結果、直江氏の菩提寺である徳昌寺が破却されたのも、その辺の事情が垣間見られる。だがこの仕打ちに直江家に属する与板衆は納得せず、兼続夫妻の位牌は兼続の母の実家である尾崎氏の菩提寺東源寺に移されたのである。だが兼続に奸臣の汚名をかぶせた以上、直江家との繋がりは曖昧にせざるを得なかったということではないだろうか。後に上杉鷹山が「直江夫妻の法要を営まないのは人情にあらず」として百回忌の法要を行って兼続の名誉を回復している。

東源寺。直江兼続夫妻と嫡子景明の位牌を祀る。

(写真:米沢の東源寺。直江兼続の母の実家尾崎氏(泉氏)の菩提寺で尾崎氏とともに信州飯山から移った。直江兼続夫妻と嫡子景明の位牌を祀る。)

「兼続の妻、お船」

 兼続は直江家の婿、それも二人目の婿である。妻のお船は年上女房で兼続没後も直江後室と呼ばれ、上杉家中で大きな影響力を持った。夫の遺志を継いで書物の出版を行ったり、藩主上杉定勝の母代わりとして深く信頼されていた賢夫人であった。お船を北条政子に比する評価もある。お船の最初の夫、信綱は長尾家の出身だったが、御館の乱の論功行賞で不満を持った毛利秀広に斬殺された。この緊急事態に直江家の婿として白羽の矢が立ったのが樋口与六兼続である。この後、兼続は上杉家を支える柱石として大活躍するが、お船もまた直江家に仕える与板衆を束ね、定勝の養育など奥向きを任せられ、兼続をよく支えた。林泉寺にある兼続夫妻の墓は兼続とお船のものが同じ大きさで並んでいる。

直江兼続夫妻の墓。

(写真:米沢の林泉寺にある直江兼続夫妻の墓。林泉寺は上杉謙信の祖父、長尾能景が1496年創建した長尾、上杉家の菩提寺である。景勝移封の際、越後から米沢へ移ってきた。藩主は御廟に祭られているが、林泉寺には上杉景勝夫人菊姫など歴代米沢藩主正室の廟が置かれ、上杉家の分家や子女の墓もある。他にも水原親憲、甘粕景継など上杉家臣の墓も並んでいる。)

「兼続の子ども達」

 兼続の子には嫡男景明と二人の娘がいたとされる。嫡男誕生以前、本庄繁長の三男長房(鮎川氏の祖)を一時養子に迎えたこともある。1604年には本多正信の次男政重を娘婿として迎え、直江勝吉を名乗らせている。これは西軍に与して徳川から睨まれた上杉家を守るためのものとも言われる。だが娘が亡くなり、兼続は弟大国実頼の娘阿虎を養女にした上で政重に嫁がせて関係を維持したが、後に政重は本多に復姓し、上杉家を離れて加賀前田家に仕えた。この際に政重は直江家臣団の一部を引き連れて前田家に移った。一方で嫡男景明は本多正信の媒酌で戸田氏鉄の娘と結婚した。こうして景明は兼続の正式な後継者として父、兼続とともに大坂の陣で活躍し、感状を拝領する。だが生来病弱だったという景明は無理が祟ったのか1615年若くして亡くなる。景明は病弱で両目も患っていたため、兼続が五色温泉で治療させたと伝えられる。このほか高野山の清融阿闍梨は兼続の庶子でお船を養母と慕っていたともされる。

五色温泉の宗川旅館

(写真:五色温泉の宗川旅館。五色温泉は1300年ほど昔、役行者が吾妻山中にて五色の湯煙が立上るのを見つけ、温泉を発見したという伝説がある。また兼続の嫡男景明が病弱で両目を患ったため、1609年兼続が五色温泉に湯壷を開き湯治させたとも伝えられる。後年、五色温泉には日本初の国設スキー場が造られ(1911年)、名スキーヤーや皇族が訪れ、皇族のためのスキーロッジ「六華倶楽部」も建設された。)

「兼続の兄弟、親族」

 兼続の弟は二人あり、次弟の与七は小国重頼の養子となり、後に命により姓を大国に変え、大国実頼と称した。兼続を支え、越後村上城、会津南山城、出羽高畠城の城主となったが、本人は伏見に在番し、後に本多政重を養子に迎える際に反対して使者を切り高野山に出奔。後に兄兼続が亡くなってから米沢藩に戻っている。実頼の娘、阿虎は兼続の養女となって本多政重の継室となった。末弟、景兼は樋口家を継ぎ、景兼の次男は大国家を継いだ。兼続の三人の妹はそれぞれ須田満胤、色部光長、篠井泰信に嫁いだという。与板衆の志駄義秀はお船の姉の子で直江家に仕え、最上義光との戦いでは酒田の東禅寺城を守り、後に米沢奉行となる。兼続の母蘭子の実家である信州飯山の泉氏の一族には尾崎重誉、岩井信能がいる。これら兼続の親族の中でも色部家は幕末まで上杉家の重臣として活躍した。色部光長は当初、北条郷の金山を守備したが後に米沢郊外の窪田に知行を得た。

窪田の千眼寺保呂羽堂

(写真:窪田の千眼寺保呂羽堂。千眼寺は色部家の菩提寺。保呂羽堂は色部長真(光長の父)が1590年仙北一揆を解決した際、秋田の保呂羽堂から本尊を受けて越後平林に遷座し、1601年上杉家転封で窪田へ遷した。「裸餅つき」が有名。)

「兼続の評価・逸話」

 兼続は秀吉から高く評価され「陪臣の身であるが直江山城守兼続(上杉家)、小早川左衛門隆景(毛利家)、堀監物直政(堀家)は天下の仕置きを任せられる者だ」と評されたという。しかしこれは幕末の『名将言行録』によるもので信憑性がなく、実際に秀吉がどれ程目を掛けていたのかは分からないともいう。会津移封の際に米沢三十万石が兼続に与えられたというが、それは与力を加えて三十万石ということで兼続自身に与えられたのは六万石のみである。ちなみに関ヶ原後の上杉家はが置賜郡に信夫・伊達両郡を加えてやっと三十万石の石高である。

 江戸初期の儒学者である藤原惺窩は兼続について「近世戦国の世に学を好んだものは上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続、赤松広通があっただけ」と当時の武将の中でも学問を好んだことを高く評価している。

 徳川家康からの詰問に対して「直江状」を交渉役の西笑承兌に送り返して挑戦的な態度をとって家康を激怒させて会津征伐を招いたことはよく知られるが原本が無く、一説には「直江状」は偽書ともされる。

 兼続は主君を誤らせ石田三成と組んで家康に刃向かい上杉家を窮地に陥れた奸臣であるという評価もある。この兼続が奸臣という評価は上杉家では兼続夫妻の没後、反直江の上杉家臣らが幕府の意向を窺って奸臣扱いするようになったと見られている。

 ある時、上杉家中の者(三宝寺勝蔵とも横田式部ともいわれる)が些細なことで下人を殺害した際、下人の親類が怒って下人を返せと騒いだ。兼続は行き過ぎを認めて慰謝料として銀二十枚を出して弔うよう命じた。だが親類は下人を返せの一点張りで埒があかないため『ならばお前達が直接行って閻魔大王に頼んで来い』と親類を殺して閻魔大王宛ての高札を立てたという。

 伊達政宗が天正大判を周りに見せびらかしてたところ兼続は手にとらず扇子で裏返した。政宗が陪臣だからと遠慮しないで手に取っても構わないと言うと兼続は自分の手は謙信公の頃から采配を握るためのものでこんな不浄なもの触るわけにいかないと投げ返したという。また政宗とすれ違ったときに会釈しなかったため、政宗が陪臣の身で大名に会釈をしないのは無礼だろうと咎めると、兼続は戦場では(逃げる際の)後姿しか拝見したことがなかったのでお顔を存じ上げませんでしたと返したという。

 兼続の甲冑は上杉神社稽照殿に保管された「愛」の前立の物がよく知られている。愛の前立の理由として愛染明王を信仰したからとか「愛民」の精神を表したものとか諸説あるが決定的なものは無い。一方、兼続が慶長出羽合戦で着用したという甲冑の前立は普賢菩薩の梵字である。こちらは宮坂考古館に保管されている。