中野城

山形市立大郷小学校の庭にある「史蹟中野城址」の碑中野城南大手門跡。前にある道路は楯坂と呼ばれ、武士が大手門の石橋を渡り、登城したところという。

(写真左:山形市立大郷小学校の庭にある「史蹟中野城址」の碑。)

(写真右:中野城南大手門跡。前にある道路は楯坂と呼ばれ、武士が大手門の石橋を渡り、登城したところという。)

中野城は山形城の支城として応永年間に最上氏三代目の最上満直の次男中野満基によって築かれたという。中野は最上川支流の須川に面し、水陸交通上の要衝であった。最上氏はここに中野氏を配したが、満基の子満氏、さらにその子義淳の二代は最上宗家を継ぎ中野・山形の両城を知行にしたとされる。義淳の長男義定は最上宗家を継いで山形城に入り、次男義建は中野氏を継いだが、最上義定は伊達稙宗に敗れて稙宗の妹を妻に迎えることになり、伊達の介入を受けるようなった。義定の死後、伊達氏の意向で僅か二歳の義建の孫、中野義守が最上氏の当主に据えられた。義守は長男義光を嫌い、次男の義時に継がせようとしたらしいが老臣氏家定直の諫言で1571年義光の家督相続が決まり、義守は中野に隠居し、義時は中野氏を継いだ。だが1574年不満を抱く、最上義守と中野義時は山形城の最上義光を討つべく画策し、伊達輝宗や天童頼貞など最上一族を味方につけて義光を攻めた(天正最上の乱)。しかし義光は輝宗と和議を結び、乱を終結させた。天正三年(1575年)中野義時は山形の両所宮で兄の義光を呪詛したという理由で中野城を攻められ切腹し、義時の子備中が仙台に逃れたという。しかし義時は長瀞義保と同一人物だとも、実在しなかったともいわれ、当時の史料の「中野殿」は義時ではなく隠居した義守のことと確認された。元和八年(1622年)の最上氏改易により中野城も廃城となったという。