長崎城

長崎城と隣接していたという北小路稲荷神社(楯の稲荷神社)。一角に鎌倉・室町期の板碑が並ぶ。長崎城第八代城主、中山玄蕃頭朝政の墓「玄蕃壇」。

(写真左:長崎城と隣接していたという北小路稲荷神社(楯の稲荷神社)。一角に鎌倉・室町期の板碑が並ぶ。)

(写真右:長崎城第八代城主、中山玄蕃頭朝政の墓「玄蕃壇」。)

中山町の中心部にあった長崎城は大江親広(大江広元の子)の部将、中山忠義の子孫中山継信が築城した。大江広元は源頼朝に仕えて鎌倉幕府の政所別当を務めた重臣で寒河江荘を所領とした。だが子の親広は承久の乱で上皇方につき、幕府軍に敗れて所領の寒河江に落ち延びた。その際に付き随ったのが中山忠義で伏熊(大江町)に拠った。その子孫中山継信は至徳元年(1384年)東に進出し、長崎城を築城した。背景には大江氏と山形の斯波(最上)氏との抗争があった。長崎城は大江氏の東の前線基地でもあった。文安二年(1445年)三代城主中山宗朝の時に城は完成したという。八代城主中山玄蕃頭朝政は家臣渋谷懐良に乗っ取られた長崎城を取り戻し、地域開発を行って領民に慕われたとされ、その墓所は「玄蕃壇」と呼ばれ長崎の西町に残っている。玄蕃頭朝政は天正十一年(1583年)に68歳で亡くなり、子の中山玄蕃朝正が九代城主となるが天正十二年(1584年)大江氏が最上義光に滅ぼされ、以後中山朝正は最上義光に仕える。朝正は義光の庄内侵攻で活躍し、武藤氏を滅ぼした後の尾浦城主(鶴岡市)となるが、越後から攻め入った本荘繁長軍に敗北し、長崎城に逃げ戻った。関ヶ原の戦いに伴う出羽合戦では直江兼続率いる上杉軍の猛攻で長崎城は落城している。元和八年(1622年)最上氏が改易されたことにより、長崎城は廃城となった。