森合峠・戊辰戦争戦跡

羽州街道  

旧街道
羽州街道  

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森合峠の田山花袋の歌碑。森合峠にある田山花袋の文「金山の一夜」を記した碑。
戊辰戦争三本松戦跡の碑。仙台藩第六大隊長の梁川播磨頼親はこの地で桂太郎率いる新政府軍に敗れて戦死した。仙台藩士戊辰戦歿碑。仙台藩兵戦死者が葬られる。

金山の北にある森合峠は有屋峠越えの廃止により、江戸初期に羽州街道として整備され、秋田の佐竹侯など諸大名が参勤交代の際にこの峠を越えていった。明治十一年には『日本奥地紀行』の作者でイギリス人女性旅行家イザベラ=バードもこの峠を越えて北へと向かっている。明治十三年には山形県内の道路整備を強力に推進した「鬼県令」三島通庸が羽州街道を大改修し、翌年には明治天皇が行幸している。また文人田山花袋も金山に宿泊し、この峠を越えていて峠には歌碑が残されている。多くの人々が越えた峠だが昭和三十三年に新しい国道が完成すると廃道となり荒廃した。しかし昭和五十六年に林道として再び整備されて現在はかつての道をたどることができる。
金山から森合峠に登っていく麓の三本松あたりは戊辰戦争の際、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の激しい戦いがあった。東北の諸藩は奥羽越列藩同盟を組織し、薩長を中心とする新政府軍に抵抗した。そんな中でも最上地方を治める新庄藩は新政府軍についたが、周囲は敵に囲まれ危うい状況であった。果して慶応四年(1868年)五月末、同盟軍主力の仙台藩兵五百余名が新庄藩領の金山に進軍してきた。この時点で奥羽鎮撫総督九条道孝率いる新政府軍の主力は秋田にあり、七月十一日になってようやく長州の桂太郎率いる新政府軍が北の森合峠から、薩摩の兵が東の有屋峠から金山に攻め込み、両面から攻撃された仙台藩兵は混乱のうちに潰滅。仙台藩第六大隊長の梁川播磨頼親は金山の十日町で重傷を負い、森合峠麓の三本松まで逃れたがこの地で薩長の兵に襲撃されて壮烈な戦死を遂げた。時に三十七歳。仙台藩は梁川播磨以下三十三名の戦死者を出した。だが新政府軍のこの勝利も一時のことで七月十四日には庄内藩の同盟軍が新庄城を攻め落とすのである。梁川播磨らが戦死した場所は「戊辰戦争三本松戦跡」として戊辰戦争の悲劇を後世に伝えている。無念の戦死を遂げた梁川播磨は文武両道の武士で歌道の嗜みがあった。
「積む雪に 通路たへて おのずから うき世をへだつ 冬の山里」
これら同盟軍の仙台藩兵戦死者が葬られた場所に明治二十五年、旧仙台藩有志が追悼碑として「仙台藩士戊辰戦歿碑」を建てている。

 

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