南舘神明神社 |
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(写真:南舘の神明神社。南舘には山形に移った義姫が住んだという。) |
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山形城の南口に当たる羽州街道沿いの南舘地区には神明神社がある。これは斯波兼頼から数えて五代目に当たる山形城主最上(斯波)義春が文明二年(1470年)に祀ったものとされる。この神明神社付近一帯は最上氏の時代、山形城南の楯があり、南館と呼ばれた。山形城主最上義光の妹義姫は米沢城主伊達輝宗に嫁ぎ、お東と呼ばれ、独眼龍で知られる伊達政宗と小次郎の二子をもうけた。義光と政宗が対立した際は両陣の間に居座って叔父甥の間で戦になるのを体を張って防いだ。天正十八年(1590年)義姫は弟の小次郎を当主にするべく我が子政宗を毒殺しようとしたが政宗は命を取りとめ、小次郎は斬られ、義姫は夜にまぎれて米沢から逃げ、山形城の兄最上義光のところに駆け込んだという。しかし、実は毒殺事件は江戸時代になって作られた話らしく、その年小次郎が亡くなったこと、政宗により七代の勘当とされたことが分かるぐらいで真相は不明である。義姫に至っては文禄三年(1594年)まで政宗と行動をともにし、朝鮮出兵中の政宗と手紙をやり取りしていたが、岩出山から突如出奔して山形に移ったことが虎哉宗乙から大有康甫への手紙で判明している。義光は父最上義守の隠居所でもあったこの南舘に義姫を住まわせた。1600年慶長出羽合戦で直江兼続が最上領に攻め込んだ際、義姫は伊達家の留守政景に早く援軍を送るよう手紙で催促している。この戦いで義姫に仕えた加藤掃部が戦死したという。1622年最上家が改易されると、政宗によって仙台に引き取られて翌年亡くなった。 |