明新館

武家屋敷通りにある上山藩藩校明新館の跡。

(写真:武家屋敷通りにある上山藩藩校明新館の跡。)

武家屋敷「旧曽我部家」。曽我部家は藤井松平氏に仕え、宗旨奉行、馬廻役、徒頭、大目付など代々要職についた。武家屋敷「森本家」。森本家は藤井松平氏が丹波篠山藩主だった頃からの家臣。代々藩主随伴役が主な役職。十一代森本秀晋は藩校明新館の助読や訓育掛を勤め、漢学に通じ、屋敷を「錦繍亭」、庭園を「黄華園」と名付けた。

 

(写真左:武家屋敷「旧曽我部家」。曽我部家は藤井松平氏に仕え、宗旨奉行、馬廻役、徒頭、大目付など代々要職についた。)

(写真右:武家屋敷「森本家」。森本家は藤井松平氏が丹波篠山藩主だった頃からの家臣。代々藩主随伴役が主な役職。十一代森本秀晋は藩校明新館の助読や訓育掛を勤め、漢学に通じ、屋敷を「錦繍亭」、庭園を「黄華園」と名付けた。)

武家屋敷通りには藩校明新館跡の石碑がある。文化六年(1809年)上山藩主松平信行は儒学を重んじ、家臣に命じて学問所「天輔館」を設立させた。高畠藩主の織田家から武田孫兵衛を講師に招き、伊藤仁斎、荻生徂徠らの学説を加えて上山藩の学風をつくった。天保十一年(1840年)には米沢藩藩校興譲館の提学も務めた米沢藩士神保蘭室を招き、この地に学舎を建築して「明新館」と改称した。藩士だけでなく一般庶民の希望者の入学も許可しており、明治四年までこの地で教育が行われた。なお「明新館」の名称は現在、上山明新館高等学校としてよみがえっている。

現在、武家屋敷通りとされる仲丁通りには藩の要職にあった家臣が住んでいた。現存する武家屋敷は寛永から元禄年間の土岐山城守が藩主だった頃のもので、茅葺屋根と鉤型の曲屋、玄関と通用口を分けた武家中門造りである。屋内には槍置場と広い土間があることを共通の特徴とする。西の山々の谷川から水を引き、庭園に池も造られており、防火用水の役割も果たしている。