松山城

松山城大手門松山藩の藩校「里仁館」の跡

(写真左:松山城大手門)(写真右:松山藩の藩校「里仁館」の跡)

松山藩は庄内藩主酒井忠勝の遺言によって1647年三男の忠恒に二万石を分けて成立した。その頃はこの地を中山といった。領地は庄内と内陸の左沢に分かれていた。後に中山を松山と改称。三代目酒井忠休が若年寄を長く務めたことから1779年築城が許され、松山城がつくられた。大手門は1792年雷で焼失したが再建され、現在も松山城のシンボルとして保存され、県文化財に指定されている。他の遺構は幕末に宗家庄内藩とともに行動して新政府軍に抵抗したため破却を命じられた。
明治二年、松山に藩校「里仁館」が創設された。「一貫堂」と称した時期もある。のちにその名は里仁館高校に受け継がれた。