松ヶ岡史跡

松ヶ岡開墾地の碑。松ヶ岡開墾の拠点となった松ヶ岡本陣。

(写真左:松ヶ岡開墾地の碑。)(写真右:松ヶ岡開墾の拠点となった松ヶ岡本陣。)

新徴組隊士が住んだ新徴屋敷。「蝉しぐれ」のセットを示す看板。

(写真左:新徴組隊士が住んだ新徴屋敷。)(写真右:「蝉しぐれ」のセットを示す看板。)

映画の野外撮影用セット。夕暮れの映画撮影セット風景。

(写真左:映画の野外撮影用セット。)(写真右:夕暮れの映画撮影セット風景。)

羽黒町の松ヶ岡開墾地の歴史は明治五年、戊辰戦争で敗北した旧庄内藩士三千人らが家禄廃止に伴い窮乏したことから「松ヶ岡開墾事業」として荒地の開墾に取り組んだことに始まる。その際、拠点となった松ヶ岡本陣はもともと初代庄内藩主となった酒井忠勝が居城である鶴岡城が整備されるまで住んだ仮殿「高畑御殿」であった。それが城の整備が済んだ後、藤島に移築されて「御茶屋」と呼ばれ、藩主の江戸往復の際の休憩所として用いられた。それが明治五年に開墾事業が発足した際に松ヶ岡に移築されて「松ヶ岡本陣」と称したものである。旧藩主酒井忠発が開墾地を「松ヶ岡」と命名し、戊辰戦争以来、庄内に縁のある西郷隆盛が「気節凌霜天地知」の言葉を贈って開墾に取り組む諸士を励ました。開墾事業は桑園の造成に始まり、大蚕室を十棟造って養蚕事業を興した。慣れない開墾に苦しみながら「報国」の志をもって開墾は進められ、製糸工場や絹織物工場を創設するまでに至った。現在、残る大蚕室が開墾記念館や農具館として公開されている。またその傍らに「新徴屋敷」と称する住宅一棟が保存されている。これは「新徴組」隊士たちが住んだ家である。清河八郎のつくった浪士組のうち京都に残留したグループが会津藩預りの「新撰組」、江戸に戻ったグループが庄内藩預りの「新徴組」だった。江戸警固役が解かれて新徴組も庄内に移り新徴屋敷に住み、戊辰戦争では庄内藩のために戦った。戊辰戦争敗北後、新徴屋敷は松ヶ岡開墾地に移築され、開墾に従事する新徴組隊士もいた。松ヶ岡の開墾地には敗北の苦しみを乗り越えていった彼らの血と汗が染み付いている。なお松ヶ岡開墾地の近くには時代劇のの映画撮影野外セットもあり、観光客が訪れていた。