雲井龍雄の墓

雲井龍雄の墓

(写真:常安寺にある雲井龍雄の墓)

幕末の志士雲井龍雄は中島惣右衛門の次男で幼名猪吉といった。のち小島才助の養子となり小島辰三郎を名乗る。本名は小島守善。雲井龍雄は彼の最も知られた変名である。幼少から秀才として知られ、興譲館に通って、その書籍を読み尽くしたともいう。当時の興譲館が朱子学一辺倒だったことから反骨精神旺盛な龍雄は講義に出席しなくなり、米沢藩の秀才、甘糟継成の好意で蔵書を借り出して勉強していた。結局、興譲館からは放校処分とされてしまった。高畠御役屋で斎藤篤信の部下として仕事をしながら漢詩を作っていたが、江戸勤務となり安井息軒の塾で頭角をあらわす。その後、藩命で京都にて宮島誠一郎らと同様に工作活動に従事。長州・土佐の志士と深く交流していた。雲井龍雄は大政奉還には賛成で新政府の役人にも抜擢されたが、薩長主導の武力による奥羽諸藩の討伐には反対し、「討薩の檄」を作って薩摩藩の罪を挙げて非難しながら、奥羽越列藩同盟の決起を義挙として協力を求めた。米沢藩は当初、新政府と敵対せずに会津、庄内両藩を擁護しながら戦争回避の道を探っていたが、新政府軍参謀世良修蔵が暗殺されるに及び、新政府との対立が決定的となって奥羽越列藩同盟を結成して戊辰戦争に突入した。また龍雄は新撰組の永倉新八らを米沢に迎えた。戊辰戦争後、新政府の集議院に勤めるが反骨精神旺盛で激しく議論を闘わせる所が嫌われ、戊辰戦争中の「討薩の檄」の態度が問題視され、議員を追われた。その後、逆賊とされ苦しんでいる士族を救うため、明治2年上京して意見書を提出するが明治政府に取り入れられず、明治3年「帰順部曲点検所」を組織して奥羽諸藩士を集め、旧知である長州の広沢真臣らに資金援助を求め、広沢の許可を得て人を集めたが、新政府に不満を持つ士族が集まったため「不満をもつ人々を集めて密議を行った」とされた。龍雄は内乱罪で逮捕されて小塚原で斬首された。享年27歳。墓は南米沢駅近くの常安寺にある。後に長州の広沢真臣が暗殺されたのは広沢が旧知であったにも関わらず龍雄を見殺しにしたので龍雄の仲間、肥後の中村六蔵が広沢を殺したのだともいわれる。