熊野大社

熊野大社の石鳥居。宮内は熊野大社の門前町として栄えた。源義家が鎌倉権五郎景政に植えさせた大銀杏。熊野大社北方の丘にある宮沢城址の碑。周囲は果樹園。

(写真左:熊野大社の石鳥居。宮内は熊野大社の門前町として栄えた。)

(写真中:源義家が鎌倉権五郎景政に植えさせた大銀杏。)

(写真右:熊野大社北方の丘にある宮沢城址の碑。周囲は果樹園。)

宮内の熊野大社は「日本三熊野」の一つとされ、創立年代が不明だが古くからあり、大同元年(806年)に平城天皇の命により再建したと伝えられる。また1063年源義家が紀州熊野大社分霊を再勧請して戦勝感謝した。入口に立つ大銀杏は義家が鎌倉権五郎景政に植えさせたされる。宮内は熊野大社の門前町として栄え、北条郷(現南陽市一帯)の要衝となった。1498年には伊達家臣で宮沢城主の粟野政国が社殿を再建した。宮沢城は宮内城ともいい熊野大社の北三百米離れた丘の上にあったとされ、永禄・天正年間には伊達家臣大津美作守、大津土佐守父子が在城した。天正十四年(1576年)には伊達氏が大檀那となって大津美作守が熊野大社社殿を建立した。熊野大社には天正十八年(1590年)の伊達政宗安堵状も伝わる。のち伊達政宗が岩出山に移り、蒲生氏の時代になると御家騒動が起こり、中山城主蒲生郷可が不仲の米沢城主蒲生郷安を攻めるため宮沢城を修理して米沢城攻撃の拠点にしたという。

熊野大社拝殿。慶長九年(1604年)に直江兼続が再建しているが、現在のものは天明年間の作。本殿の彫刻には「三羽の兎」が隠れており、三羽全て見つけると金持ちで長寿になるという。尾崎重誉が飯山から熊野大社境内に移した氏神の和光神社。

(写真左:熊野大社拝殿。慶長九年(1604年)に直江兼続が再建しているが、現在のものは天明年間の作。本殿の彫刻には「三羽の兎」が隠れており、三羽全て見つけると金持ちで長寿になるという。)

(写真右:尾崎重誉が飯山から熊野大社境内に移した氏神の和光神社。)

慶長三年(1598年)上杉景勝の会津入りで米沢は直江兼続が統治するようなり、宮沢城には信濃飯山城主尾崎三郎左衛門重誉が移ってくる。尾崎氏は源義平の子孫泉一族に属し、飯山城主泉弥七郎重歳の娘が直江兼続の母蘭子で重誉は兼続の従兄弟の子という。尾崎重誉は信濃から氏神の和光山明神を熊野大社境内に移しており、熊野大社に残る末社や善光寺銘の華鬘など信州由来の品々もこの時もたらされた。宮内の蓬莱院は重誉の祖母の開基とされる。尾崎氏は間もなく福島に異動となるが、宮内の北隣の金山に直江兼続の妹婿である色部与三郎綱長(のち光長)が入り、また宮内には尾崎氏の家臣である安部右馬助綱吉や板垣氏、嵐田氏が残され、兼続がこの地を対最上義光の前線基地として重視したことが窺われる。1600年の慶長出羽合戦では色部綱長や安部綱吉らが小滝方面から最上義光を攻めて戦功を挙げた。慶長九年(1604年)には直江兼続が大檀那となって社殿を再建している。

安部右馬助綱吉が熊野大社に奉納した寛永三年の洪鐘。熊野大社境内の安部右馬助綱吉顕彰碑。

(写真左:安部右馬助綱吉が熊野大社に奉納した寛永三年の洪鐘。)

(写真右:熊野大社境内の安部右馬助綱吉顕彰碑。)

尾崎重誉に仕えた安部右馬助綱吉は主とともに飯山から宮内へ移ったが、尾崎氏が信夫郡福島へ移った後も宮内に残り、慶長出羽合戦では色部綱長らとともに倉賀野綱元に与力して小滝方面から直江兼続の長谷堂城攻めに加わり武功をあげた。また右馬助は荒地の開田や宮内の町割を行った。この際、宮内は城下町に倣った町割がなされ、吉野川から大堰を引き水利を確保しつつ、落堀を開削して宮内が水害に遭わないように工夫した。また実行されなかったが、度々氾濫する吉野川の水を白龍湖に流すことでその土砂により、大谷地と呼ばれる大湿地帯を埋め立てて田畑にする計画を立てていた。火災に遭った熊野大社の社殿修復にも努め、寛永三年奉納した洪鐘も残されている。熊野大社境内には右馬助を顕彰する碑も建っている。また蓬莱院を現在地に移転した。寛永六年には北条郷代官及び金山奉行となり金山の経営にも努めている。