興譲館

米沢市笹野に移転した山形県立米沢興譲館高等学校藩校興譲館跡地に建てられた記念碑

(写真左:米沢市笹野に移転した山形県立米沢興譲館高等学校)

(写真右:藩校興譲館跡地に建てられた記念碑

米沢藩藩校「興譲館」は第十代米沢藩主の上杉鷹山公により「学問は治国の根源」とされ、細井平洲先生の命名で安永五年(1776年)創設された。かつて上杉景勝に仕えた名宰相直江兼続が1618年に学問所「禅林文庫」を設立し、1697年には四代藩主上杉綱憲(吉良上野介の子)が学問所を設置していたが、この米沢藩における学館の再興を目的とするものであった。鷹山公は折衷学派の学者でる細井平洲先生を招請して「学則」を定め、莅戸善政を総監、神保綱忠(蘭室)を提学とした(後に督学)。正門は南側、正面奥に孔子を祭る「先聖殿」、手前に大きな講堂があた。後に右側に通学生のための「友于堂」、左側に医学館「好生堂」が併設された。政治経済に役立つ「実学」奨励の学風で有為の人材を数多輩出してきたが元治元年(1864年)大火で焼失し、門東町に移転された。山形県立米沢興譲館高等学校は米沢藩の藩校「興譲館」の流れと名称を受け継いだ由緒ある学校である。興譲館は明治7年に私立米沢中学校と改称し、明治33年山形県立となった。昭和4年には山形県立米沢興譲館中学校と改称し、戦後の昭和23年に山形県立米沢第一高等学校と改称。25年には山形県立米沢高等学校に改称し、27年山形県立米沢西高等学校に改称。昭和31年に至り、興譲館の名称が復活して山形県立米沢興譲館高等学校となった。「興譲館」は長い歴史の間に数多くの人材を世に送り出している。現在、山形県立米沢興譲館高等学校は米沢市笹野に移転されている。