清河神社 |
(写真:維新回天の魁として活躍した幕末の勤皇の志士「清河八郎」。新選組ができるきっかけを作った人物としても知られる。) (写真左:清河八郎を祭神として祀る「清河神社」。) (写真右:清河八郎を顕彰し、遺品保管している「清河八郎記念館」。背後の森は戊辰戦争で清川口の戦場となった「御殿林」。 |
清川を代表する人物といえば「清河八郎」である。「清河八郎正明」は天保元年(1830年)十月十日清川の大庄屋で酒造業も営んでいた齋藤家に生まれた。幼名は元司、父は齋藤治兵衛豪寿、母は亀代といった。十七歳の時に父を訪ねた藤本鉄石の影響を受け、十八歳で許可を得て江戸に遊学する。東条一堂、安積艮斎に師事し、昌平黌に学んだ。剣術は千葉周作の玄武館に入門して北辰一刀流免許を授けられた。関西や九州を遊学し、伊勢詣の際は紀行文「西遊草」を著している。安政元年(1854年)江戸に塾を開く一方、尊皇攘夷の志を強めて幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)らと「虎尾の会」を結成した。坂本龍馬らも名を連ねていた。同志がヒュースケンを暗殺したため幕府に睨まれ、ついに幕府の捕り方を斬ってしまい追われる身となった。その後も天皇の詔を得て挙兵せんと図ったが文久二年寺田屋の変で頓挫した。文久三年将軍家茂が上洛した際、その警護として「浪士組」を組織することを山岡鉄太郎を通じて幕府に献策した。しかし京都に着くや清河は浪士組の真の目的は尊皇攘夷の実行であることを宣言。しかし芹沢鴨や近藤勇らは清河に反発して離脱し、会津藩預かりの身となり「新選組」を組織する。清河の策略に幕府は怒り浪士組を江戸に帰還させた。さらに幕府にとって危険人物である清河の暗殺を図る。文久三年(1863年)四月十三日、清河八郎は上山藩の金子与三郎邸を訪れた。その帰途、幕府の刺客佐々木只三郎によって暗殺された。享年三十四歳。 清河は暗殺の前に高橋泥舟邸に立ち寄ってこの歌を詠み不吉であると金子邸行きを止められたが出かけて暗殺されてしまった。 清河の集めた浪士組はその後庄内藩預かりとなり「新徴組」として江戸警護にあたった。明治元年、京都の霊山に清河も祀られ後に靖国神社に合祀。昭和八年、故郷に清河神社が創建された。 |