観月庵

吉田大八が切腹した観月庵。建勲神社の階段下にある。

(写真:吉田大八が切腹した観月庵。建勲神社の階段下にある。)

幕末の慶応四年(1868年)、朝廷から奥羽諸藩に会津藩追討の命が下され、天童藩主織田信学は「先祖以来格別の家柄」という理由で奥羽鎮撫使先導の大役を命じられた。藩主信学は脚の病のため、家老吉田大八守隆が名代を務めることとなった。鎮撫使の狙いは庄内藩の攻略で、幕府が村山郡内の天領を庄内藩に移管し、庄内藩が前年度の年貢を接収して酒田の倉庫に収めたことにかこつけて討伐指令を出したのである。吉田大八は鎮撫軍を先導し、新庄に本陣を置いて最上川を下り、清川で庄内軍と激突。一方、庄内軍は六十里越えで村山郡に進出、天童攻撃の布陣をしく。天童藩、山形藩などの藩兵は庄内軍とにらみ合う。庄内軍は旧幕府領の村々に協力させた。ついに庄内軍は長崎渡場から最上川を越えて上陸し、山形藩兵を撃破。続いて天童藩を攻撃し、悉くこれを撃破して天童城下に放火。天童は藩主の館、屋敷、民家まで全て灰燼に帰した。敗れた織田信学は田麦野経由で仙台藩領の秋保温泉に脱出した。庄内藩は吉田大八を奥羽を戦争に巻き込んだ張本人として大八を捕らえた者に賞与を出すとの檄文を出した。そして情勢は一変し、奥羽諸藩が奥羽列藩同盟を結成して官軍に対抗する方向に進んだ。天童藩が同盟に加わる条件は吉田大八の引渡しだった。大八は潜伏していたが米沢藩に自首して天童藩に引き渡されて観月庵で切腹した。享年三十七歳。その時、大八の血が観月庵の天井を血で染めたと伝えられる。