上山城
上白線のこと
最寄駅「かみのやま温泉」
奥羽本線
羽前中山駅
茂吉記念館駅
山形新幹線
米沢駅
高畠駅
赤湯駅
かみのやま
温泉駅
山形駅
天童駅
さくらんぼ
東根駅
村山駅
大石田駅
新庄駅
上山城は最上氏の一族である上山氏(武衛氏)の居城で当初は現在地より西にある虚空蔵山に築かれ、高楯城と呼ばれた。だが度々、置賜の伊達氏の侵攻を受け、永正五年(1508年)に高楯城は攻め落とされ、城主上山義房は滅亡。代わって伊達家臣小梁川貞範がこの地を治めた。その後、武衛義忠が奪還し、享禄二年(1529年)もしくは天文四年(1535年)に現在地である天神森に築城された。この地に「月の池」という池があったことから月岡城と呼ばれるようになった。以後は義節・義政と三代居城したとされる。最上義光の出羽統一の過程で上山城主上山満兼(武衛義政か?)は義光得意の謀略により天正八年(1580年)家臣里見越後、民部父子に殺され滅亡した。里見は義光の家臣となり、上山城主として1600年の関ヶ原の戦いと連動した出羽合戦では物見山の戦い(上山市)で上杉軍を撃退する活躍を見せたが、義光の嫡男義康を謀殺する事件に関わって上山城から出奔し、庄内で討たれた。その後、坂紀伊守光秀や最上義光の五男義直が城主となったが1622年最上家はお家騒動で改易となり、上山義直も1626年自害することとなる。その後、能見松平氏が四万石で1626年まで在城。続いて蒲生氏郷の孫、蒲生忠知が四万石で入部したが1627年兄蒲生忠郷の死で本家を相続し、伊予松山二十四万石の藩主となった。僅かの間、山形藩主鳥居忠政の番城となり、1628年土岐山城守頼行が二万五千石で入部した。土岐頼行は上山城や城下町、道路整備、産業開発、神社仏閣の建立などを行い、上山城を奥羽三名城の一つにうたわれるまでにした。また紫衣事件で配流された沢庵禅師を迎えて春雨庵で厚くもてなした。このため土岐氏は名君として評判が高かったが、1692年幕府の命令で国替えされた上に、上山城は小藩にふさわしからずとして破壊された。次に飛騨高山から金森頼時三万八千石で入部。次の代で美濃郡上に転封された。1697年藤井松平氏が三万石で入部して上山城再建を目指したが果たせず明治を迎えた。現在の上山城天守閣は1982年上山城跡である月岡公園に再建されたもので上山の歴史を知ることができる資料館となっている。
城の北西側には武家屋敷通りが残されている。上山城(月岡城)ができるとその西・北部一帯が武家屋敷となった。現在、武家屋敷通りとされる仲丁通りには藩の要職にあった家臣が住んでいた。現存する武家屋敷は寛永から元禄年間の土岐山城守が藩主だった頃のもので、茅葺屋根と鉤型の曲屋、玄関と通用口を分けた武家中門造りである。屋内には槍置場と広い土間があることを共通の特徴とする。西の山々の谷川から水を引き、庭園に池も造られており、防火用水の役割も果たしている。
武家屋敷通りには藩校明新館跡の石碑もある。文化六年(1809年)上山藩主松平信行は儒学を重んじ、家臣に命じて学問所「天輔館」を設立させた。高畠藩主の織田家から武田孫兵衛を講師に招き、伊藤仁斎、荻生徂徠らの学説を加えて上山藩の学風をつくった。天保十一年(1840年)には米沢藩藩校興譲館の提学も務めた米沢藩士神保蘭室を招き、この地に学舎を建築して「明新館」と改称した。藩士だけでなく一般庶民の希望者の入学も許可しており、明治四年までこの地で教育が行われた。なお「明新館」の名称は現在、上山明新館高等学校としてよみがえっている。
上へ戻る