上山城 |
(写真左:上山城天守閣。現代になってつくられたもので中は歴史資料館となっている。別名月岡城。) (写真右:桜が咲き誇る上山城。) |
上山城は最上氏一族の上山氏の居城で当初は現在地より西にある虚空蔵山に築かれ、高楯城と呼ばれた。最上直家の子、頼直は里見氏を継ぎ、さらに天童城に移り天童氏を称した。上山氏は天童頼直の子上山満長に始まる。天童頼直の子孫は天童氏、上山氏、東根氏などに分かれたが、この経緯により子孫は里見氏を称した。上山は度々、置賜の伊達氏の侵攻を受け、永正五年(1508年)に高楯城は攻め落とされている。永正十一年(1514年)長谷堂の戦いで最上義定が伊達稙宗に敗れ、最上氏が伊達氏の傀儡になってしまうと、上山義房はこれに反発して伊達氏と戦うが敗北して逃亡した。しかし永正十七年(1520年)最上義定が亡くなると上山義房は再び、伊達氏に反旗を翻す。天童氏や大江氏なども義房に同調するが義房の戦死で乱は終結した。1522年伊達稙宗は最上一族の反発を和らげるため、最上一族の中野氏に生まれた僅か2歳の義守を最上氏当主に据えた。上山城(高楯城)には伊達家臣小梁川貞範が入った。上山義房の子とされる武衛義忠が上山を奪還し、享禄二年(1529年)もしくは天文四年(1535年)に現在地である天神森に築城した。この地に「月の池」という池があったことから新たな上山城は月岡城と呼ばれるようになった。以後、義忠、義節、義政と三代居城したとされる。ちなみに武衛家とは代々兵衛に任じられることから呼ばれる家柄で通常斯波氏嫡流を指す。その後上山城主となった上山満兼は天正二年(1574年)最上義光とその父義守の対立に端を発した「天正最上の乱」において伊達輝宗や天童頼貞らとともに義守方につき義光と戦った。天正六年(1578年)には再び伊達輝宗と連合して最上義光を攻めるが柏木山の戦いで義光に撃退される。天正八年(1580年)最上義光は満兼の家臣里見越後守義近、民部父子を寝返らせ、満兼は民部に攻められて討たれた。里見民部は義光に仕え、上山城主となった。1600年関ヶ原の戦いに伴って勃発した「慶長出羽合戦」では里見民部は上杉に内通する振りをして中山城から攻めてきた上杉軍を伏兵を用いて物見山の戦いで撃退したという。1603年、義光の嫡男義康が廃嫡されて高野山に向かう途上、庄内丸岡の地で尾浦城主下吉忠(旧上杉家臣で慶長出羽合戦で最上義光に降伏して最上氏に仕えた)配下の土肥半左衛門、原八右衛門らの伏兵に討たれる事件が起きた。そもそも義康の廃嫡は徳川将軍家の覚えめでたい次男家親を跡継ぎにするか迷った義光に対し、里見民部が義康を讒言したのがきっかけとされ、民部の子権兵衛は義康の小姓にも関わらず義康とともに死ななかったため、義光に事件の黒幕と疑われて切腹を命じられた。ここにおいて里見越後、民部、権兵衛ら里見一族は逃亡し、加賀前田家への仕官を求めるが義光の手が既に回っていて仕官できず前田家から引き渡され、下吉忠の預かりとなった。1614年里見一族は庄内丸岡の地で切腹させられたという。その後、坂紀伊守光秀や最上義光の五男、上山義直が城主となったが1622年最上家はお家騒動で改易となり、上山義直も1626年配流先で自害した。その後、能見松平氏が四万石で1626年まで在城。続いて蒲生氏郷の孫、蒲生忠知が四万石で入部したが1627年兄蒲生忠郷の死で本家を相続し、伊予松山二十四万石の藩主となった。僅かの間、山形藩主鳥居忠政の番城となり、1628年土岐山城守頼行が二万五千石で入部した。土岐頼行は上山城や城下町、道路整備、産業開発、神社仏閣の建立などを行い、上山城を奥羽三名城の一つにうたわれるまでにした。また紫衣事件で配流された沢庵禅師を迎えて春雨庵で厚くもてなした。このため土岐氏は名君として評判が高かったが、1692年幕府の命令で国替えされた上に、上山城は小藩にふさわしからずとして破壊された。次に飛騨高山から金森頼時三万八千石で入部。次の代で美濃郡上に転封された。1697年藤井松平氏が三万石で入部して上山城再建を目指したが果たせず明治を迎えた。現在の上山城天守閣は1982年上山城跡である月岡公園に再建されたもので上山の歴史を知ることができる資料館となっている。 |