亀岡文殊

  高畠町内
高畠駅

  米沢市
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伊達政宗が寄進した元資福寺の古鐘亀岡文殊にある義民高梨利右衛門の供養碑
伊達政宗奉納の古鐘が安置された鐘楼堂伊藤忠太設計の亀岡文殊文殊堂

高畠町亀岡には日本三文殊の随一とされる亀岡文殊がある(日本三文殊は出羽の亀岡、大和の安倍、丹後の切戸)。亀岡文殊の大聖文殊師利菩薩は宣化天皇二年(536年)に震旦(中国)五台山から伝来し、伊勢国の神路山に安置していたが、平城天皇の大同二年(807年)奈良東大寺の徳一上人が勅命により亀岡に移したものと伝えられる。また別に中国の南北朝時代、南朝梁の僧青巌が梁の大同二年(536年)この地に飛来して霊場となり、文殊堂の創建は大同二年(807年)、会津恵日寺の高僧徳一が中国の五台山に似ているとして文殊堂を建立したのが始まりとも伝えられる。どちらにしても538年が一般的に仏教伝来の年とされていることから考えると、それ以上に由緒ある歴史を持っている。亀岡文殊の鐘楼堂にはかつて伊達政宗が天正十九年(1591年)奉納した古鐘があった。この古鐘は藤原正頼が永仁四年(1296年)に鋳造したものとされ、もともと資福寺の古鐘だった。のち享保十五年待定坊が建立した鐘楼堂に納められた。この古鐘は昭和26年破損のため、原型通り鋳直されて亀岡文殊本坊横の鐘楼にある。1602年には亀岡文殊で直江兼続や前田慶次ら上杉家の重臣が参加する歌会も開かれた。現在の文殊堂は米沢出身の工学博士伊東忠太の設計で、大正三年改築された。全国から合格祈願などに多くの人々が訪れる。
文殊堂に登る参道途中の右側に「極重悪人碑」がある。南無阿弥陀仏と朱塗りの文字が刻まれ、側面には極重悪人…と朱塗りで刻まれている。これは寛文目安越訴事件の盟主高梨利右衛門の供養碑である。二井宿村肝煎だった高梨は盟主として信夫(福島県)の幕府代官所に米沢藩の年貢徴収の過酷さ、専売制の不合理を訴えて幕府直轄地への編入を願ったが、そのため二井宿村で処刑されてしまう。だが人々は高梨の米沢藩批判を義挙として称え、幕府や米沢藩をはばかり、極重悪人と刻みながらも彼の供養碑を建てたのである。高梨ののちも屋代郷(高畠の周辺)では幕府・米沢藩・明治政府に対し、たびたび農民運動を展開し、一連を屋代郷事件として伝えている。「まほろばの郷」高畠には郷土の歴史への誇りだけでなく、権力による横暴を許さない気風も伝えられているようだ。

 

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