亀岡文殊

伊達政宗奉納の古鐘が安置された鐘楼堂伊達政宗が寄進した夏刈資福寺の古鐘。現在は鋳直されている。1591年政宗が岩出山に移る際、奉納された。

(写真左:伊達政宗奉納の古鐘が安置された鐘楼堂。)

(写真右:伊達政宗が寄進した夏刈資福寺の古鐘。現在は鋳直されている。1591年政宗が岩出山に移る際、奉納された。)

高畠町亀岡には日本三文殊の随一とされる亀岡文殊がある(日本三文殊は出羽の亀岡、大和の安倍、丹後の切戸)。亀岡文殊の大聖文殊師利菩薩は宣化天皇二年(536年)に震旦(中国)五台山から伝来し、伊勢国の神路山に安置していたが、平城天皇の大同二年(807年)奈良東大寺の徳一上人が勅命により亀岡に移したものと伝えられる。また別に中国の南北朝時代、南朝梁の僧青巌が梁の大同二年(536年)この地に来りて霊場となり、文殊堂の創建は大同二年(807年)、会津恵日寺の高僧徳一が中国の五台山に似ているとして文殊堂を建立したのが始まりとも伝えられる。亀岡文殊の鐘楼堂にはかつて伊達政宗が天正十九年(1591年)奉納した古鐘がある。この古鐘は藤原正頼が永仁四年(1296年)に鋳造したものとされ、もともとは資福寺の古鐘であったが、資福寺も政宗とともに移転するため亀岡文殊に奉納されたという。古鐘は享保十五年に待定坊が建立した鐘楼堂に納められたが、昭和26年破損したため、原型通りに鋳直されて亀岡文殊本坊横の鐘楼に置かれている。

伊藤忠太が設計した亀岡文殊文殊堂亀岡文殊にある義民高梨利右衛門の供養碑

(写真左:伊藤忠太が設計した亀岡文殊文殊堂)(写真右:亀岡文殊にある義民高梨利右衛門の供養碑)

伊達政宗に代わり、米沢に上杉景勝が入ると1602年亀岡文殊で上杉家重臣直江兼続主催の詩歌会が行われ、兼続のほか大国実頼、春日元忠、岩井信能、安田能元、前田慶次らが参加した。その際の百首の漢詩や和歌は今も亀岡文殊堂に保管されている。現在の文殊堂は米沢出身の工学博士伊東忠太の設計で、大正三年改築された。霊験あらかたな智慧の仏様として今も全国から合格祈願などに多くの人々が訪れる。

文殊堂に登る参道途中の右側に「極重悪人碑」がある。南無阿弥陀仏と朱塗りの文字が刻まれ、側面には極重悪人…と朱塗りで刻まれている。これは寛文目安越訴事件の盟主高梨利右衛門の供養碑である。二井宿村肝煎だった高梨は盟主として信夫(福島県)の幕府代官所に米沢藩の年貢徴収の過酷さ、専売制の不合理を訴えて幕府直轄地への編入を願ったが、そのため二井宿村で処刑されてしまう。だが人々は高梨の米沢藩批判を義挙として称え、幕府や米沢藩をはばかり、極重悪人と刻みながらも彼の供養碑を建てた。高梨の後も屋代郷(高畠一帯)では幕府・米沢藩・明治政府に対し、たびたび農民運動を展開し、一連を屋代郷事件として伝えている。