亀ヶ崎城

酒田東高校敷地にある亀ヶ崎城址の碑亀ヶ崎城址に建つ亀ヶ崎八幡宮。

(写真左:酒田東高校敷地にある亀ヶ崎城址の碑。)(写真右:亀ヶ崎城址に建つ亀ヶ崎八幡宮。)

酒田の亀ヶ崎城は1478年大宝寺の武藤氏が度々離反する砂越氏討伐のために築いた東禅寺城が始まりという。東禅寺城主としては東禅寺筑前守義長が知られる。東禅寺筑前守は武藤義氏の妹婿で前森蔵人を名乗っていた。武藤義氏は越後の上杉氏の力をバックに庄内を強権的に支配しようとしたため家臣や領民から「悪屋形」と嫌われた。そんな中庄内進出を企む山形城の最上義光の策謀により砂越氏や来次氏が義氏に対して反乱を起こす。義氏は前森に兵を預けて討伐しようとするが、前森は預けられた兵を率いて主君武藤義氏を討った。その後、前森蔵人は東禅寺筑前守義長を称して東禅寺城主となったという。武藤氏は義氏の弟丸岡兵庫が継ぎ武藤義興を名乗って上杉家臣本荘繁長から養子義勝を迎えた。だが庄内を支配しようとした最上義光は東禅寺筑前守の手引きで義興を滅ぼし、義勝は温海の小国城に敗走。本荘繁長は息子義勝の援軍として介入し、十五里ヶ原の戦いで本荘・武藤軍と最上・東禅寺軍が決戦に及んだ。東禅寺筑前守は弟右馬頭に兵を預けたが敗北。東禅寺筑前守は戦死。右馬頭は本荘繁長の本陣に斬り込むが繁長を倒せず斬り死にした。最上軍も重臣氏家尾張守守棟の嫡男が戦死するなど大きな損害を被った。

その後、庄内は本荘繁長の支配を経て上杉領となり東禅寺城主として甘粕備後守景継、続いて直江兼続の配下で与板衆の志駄修理亮義秀が酒田を統治した。直江兼続は庄内と米沢を結ぶため朝日岳の山岳地帯を越える朝日軍道を作らせた。1600年慶長出羽合戦において志駄義秀は兼続の命で庄内の上杉軍を率いて最上川を遡り、最上義光を攻めた。しかし兼続率いる本隊は長谷堂城を守る志村伊豆守光安と鮭延越前守秀綱を攻略できず半月が過ぎ、関ヶ原での西軍敗北の報が届くに及んで直江兼続は長谷堂から撤退する。志駄義秀も何とか庄内に撤退したが、尾浦城から六十里越で最上を攻めた下治右衛門吉忠は連絡がつかず孤立して最上義光に降伏。逆に義光の庄内攻めの先鋒となって志村光安とともに攻め込んできた。志駄義秀は最後まで抵抗を続けたが、南部氏など奥羽諸大名も最上義光の庄内攻めに加わり、1601年4月24日ついに東禅寺城を開城し、雪の朝日軍道を越えて米沢へ逃れた。

最上義光は念願の庄内支配を実現すると寝返った下吉忠を尾浦城主に戻し、東禅寺城主には志村光安を任命した。1603年酒田港に巨大亀が上陸すると志村光安はこれを義光に報告した。義光はこれを吉兆と喜んで東禅寺城を亀ヶ崎城と改称させた。同時に大宝寺城が鶴ヶ岡城、尾浦城が大山城と改められている。だが最上家中は吉兆と裏腹に争いが激化し、義光の長男最上義康が廃嫡された上に庄内丸岡にて討たれ、その罪で最上家臣の里見一族が誅殺された。1614年最上義光が死ぬと次男で家督を継いだ親徳川の最上家親に親豊臣の三男の清水義親が反乱する。志村光安の跡を継いだ志村光清は清水の意を受けた一栗兵部高春の謀反により下吉忠とともに鶴岡城内で暗殺された。一栗は逃亡するが鶴岡城代新関因幡守久正に討たれ、清水も兄家親に討たれた。その後も最上家は最上家親が変死し、まだ13歳の家信(のち義俊)が跡を継いだため、義光四男の山辺義忠を後継に推す楯岡光直、鮭延秀綱と家親の死は陰謀と主張する松根光広の争いが激化した。この家臣団の争いが収まらず幕命により最上氏は改易される。

最上氏改易後、酒井忠勝が庄内藩主となった。忠勝は居城を亀ヶ崎城にするか鶴ヶ岡城にするか迷った末、酒田は港町で大いに栄えているが鶴岡は居城を置かないと衰退するかも知れないということで鶴岡に居城を置いた。だが酒井氏は徳川四天王筆頭で譜代中の譜代、周囲の外様大名を監視する役割から亀ヶ崎城も存続を許され、江戸時代を通じて城代を置き支配した。明治になると酒田には亀ヶ崎城には民政局置かれ酒田県庁となった。のちに合併で山形県が成立すると亀ヶ崎城は解体され、現在は城址に酒田東高校が建っている。