格知学舎

本沢竹雲創設の格知学舎

(写真:本沢竹雲創設の格知学舎)

天童市貫津の「格知学舎」は明治二年(1869年)貫津村名主結城六右衛門に招かれた浄土真宗の僧、本沢竹雲(1836〜1907)が開いた私塾である。「翠濤書院」「月光書院」とも称し、五老山山麓にあったため「五老学校」とも呼ばれた。本沢竹雲は長谷堂(山形市)の西養寺住職安達秀恩の末子として生まれ、幼名を俊丸といった。十二歳で二位田の明円寺の養子となって本沢姓を名乗る。竹雲は陣屋のあった隣村の柏倉(山形市)に通って学び、後に上山藩校明新館で学んだという。竹雲は十七歳で米沢の片山塾に学び、二十二歳で京都の梁川星巌、二十三歳で江戸の藤森弘庵に学び、二十八歳で江戸の安井息軒に師事した。慶応三年(1867年)三十二歳で郷里に戻り、上山藩校明新館の教師となった。その後、明新館が閉鎖され、貫津に招かれて「格知学舎」を開いている。本沢竹雲の教育は漢学や仏教が主で、日本の伝統に即した教育を行い、西洋化への抵抗を示した。弟子にもちょんまげと和装を強いたことから「ちょんまげ学校」とも言われた。それでも昭和二十一年まで「格知学舎」の教育は続き、終戦のこの時期まで村山地方の地主の子弟百八十名が学舎に寄宿して教育を受けた。