十五里ヶ原古戦場 |
(写真左:十五里ヶ原古戦場の碑)(写真右:本荘繁長を討とうとした東禅寺右馬頭の墓) |
天正十五年(1587年)庄内を支配していた尾浦城の武藤義興は山形から侵攻した最上義光とそれを手引きした酒田の東禅寺筑前守義長によって滅ぼされた。東禅寺筑前守はかつて前森蔵人を名乗り義興の兄である義氏の家臣だったが裏切って最上義光につき義氏を滅ぼしたこともある武藤氏の仇敵だった。義興の養子、義勝は逃れて上杉家臣で越後村上の領主である実父本荘繁長の援軍を得た。1588年本荘・武藤軍は大軍を率いて庄内に侵入し、十五里ヶ原で最上軍と決戦に及んだ。東禅寺筑前守は弟右馬頭勝正に軍を率いさせ本荘繁長を迎撃したが大敗。右馬頭はせめて繁長に一矢報いんと本荘軍本陣に斬り込んで繁長に一太刀浴びせたが繁長を倒すことができず敵本陣の中で悲壮な最期を遂げた。東禅寺筑前守も討たれ、最上方は多くの犠牲者を出した。山形から最上氏の援軍を率いた最上家臣中山朝正もやっとのことで逃げ帰った。こうして庄内一円は本荘繁長が支配することになった。現在、東禅寺右馬頭の墓と戦死者の首塚が残されている。 |