昔から宮城県白石方面から七ヶ宿を経由し、山形県側に入ってくるルートは、他の奥羽山脈越えと比べて平地が多く、標高も低かったため、しばしば用いられた。江戸時代、奥羽山脈を越えて太平洋側から山形県に入る主要な街道は七ヶ宿を経由する羽州街道であった。
明治になり奥羽本線が計画された際、明治20年の山形鉄道が計画したルートも白石‐高畠‐赤湯‐山形‐大石田で羽州街道にほぼ沿ったルートであった。だが米沢出身で欧米帰りの鉄道技師、屋代伝(興譲館出身)が実地測量を行い、白石‐赤湯は難工事で200万円の工費が必要としたため、まず県内の米沢‐酒田間の建設を目指した。しかし不運にも屋代が腸チフスで33歳の若さで亡くなり、代わりの技師が見つからなかったため、この計画は頓挫した。
明治25年2月23日の『里程明細大日本新撰地図』では計画中の奥羽本線経路として、白石‐二井宿‐高畠‐川井‐米沢‐糠ノ目とやはり七ヶ宿を経由するルートで描かれていた。しかしこのルートは米沢を経由するため南に大きく迂回することになる。
その後、奥羽本線経路が検討された際は茂庭線(福島‐飯坂温泉‐茂庭‐和田‐米沢を経由)、板谷第1線(アプト式で登り、板谷峠を越える)、板谷第2線(松川の渓谷に沿って登り、板谷峠を越える)の3案が検討され、板谷第2線が採用されて現在の路線になった。
しかし、七ヶ宿経由のルートは大正時代になって上白線として再び検討された。明治44年の県議会における敷設速成意見書において羽越海岸線(羽越本線)、羽越横断線(米坂線)、陸羽横断線(陸羽東線)、新酒線(陸羽西線)と並んで上山‐白石間の上白線が挙げられたのである。上白線は次のような点をアピールしながらその後も敷設を要望し続けた。 |