唐松観音

炭焼藤太夫妻が創建したという唐松観音。最上三十三観音第五番の霊場。

(写真:炭焼藤太夫妻が創建したという唐松観音。最上三十三観音第五番の霊場。)

平安時代、現在の宝沢の地に炭焼藤太というしがない炭焼きの男がいた。そこへ京都一条殿の姫君豊丸姫という美女がやってきて藤太と夫婦になった。豊丸姫は信仰する京都清水観音のお告げで藤太に嫁いだのだった。姫は黄金を藤太に渡して米や着物に替えるよう言ったが、藤太は山形の国分寺薬師堂の池で鴨に黄金を投げつけ、全部外れて沈んでしまった。姫はこの話を聞いて驚いたが、藤太はあんなもの炭焼小屋の周りにごろごろしていると言い、行ってみると確かに黄金があちこちにあり、黄金の価値が分かった藤太は黄金を集めて長者になったという。さらに吉次、吉内、吉六の三人の男の子に恵まれ、吉次は金売り吉次と呼ばれて奥州藤原氏に仕え、金の行商で京都と往復して儲けた。その際、京都の源義経を平泉の藤原秀衡のもとに連れてきて、のちに義経の家臣になったという。藤太夫婦は信仰する観音様のおかげであるとして、岩窟に聖観音を安置して唐松観音を創建したという。この伝説から宝沢の地名が生まれたという。江戸時代、唐松観音には上杉鷹山の師、細井平洲も訪れている。