本間家旧本邸

「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」と謡われた豪商にして日本一の大地主、本間家の旧本邸。本間家旧別館

(写真左:「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」と謡われた豪商にして日本一の大地主、本間家の旧本邸。)

(写真右:本間家旧別館)

本間家旧本邸は本間家三代、本間光丘が明和五年(1768年)幕府巡検使の宿舎として建造したもので後に庄内藩酒井家の許しを得て代々本間家の本邸として使用するようになった。表は武家屋敷の造りとなっており奥は商家造りとなっている。道の向いには本間家別館もある。酒田の本間家といえば敗戦後の農地改革によって多くの農地を手放すまでは日本一の大地主として知られていた。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とまでいわれた豪商にして地主である。今は地主でないが事業を興して今も本間の名前があちこちに見受けられる。本間一族はもとは相模国だが鎌倉時代に佐渡に移住。さらに越前、越後に広がった。酒田の本間家は永禄年間に新潟から移住したという。そして本間久四郎原光が1689年酒田の本町に「新潟屋」を開業したのを初代とする。本間家は金融と地主を事業の柱として庄内藩酒井家や米沢藩上杉家などの大名に融資をして儲けた。また小作人を保護し、米作技術向上や庄内米の名声を高めることに努め、本間光丘などは砂防林の植林を行って庄内砂丘からの飛砂を防いだり庄内藩の財政再建に尽力したりと単なる商人の域を超えて地域の発展に力を尽くしてきたのである。