日和山 |
(写真左:日和山公園にそびえる酒田灯台(六角灯台)明治の木造建築では日本最古の灯台) (写真右:酒田と江戸を結ぶ西廻り航路を開発して酒田発展の基礎を築いた偉大な商人、河村瑞賢) (写真左:灯台として船頭衆、廻船問屋により寄進された常夜灯) (写真右:船頭衆がこの丘で日和を見る時に方角を指し示した「方角石」) (写真左:江戸時代、日本海の荒波を乗り越えて酒田に入港した千石船) (写真右:河村瑞賢が建てた天領米を集めた米置場の跡。碑が米の字になっている。) (写真左:展望台から酒田港を望む。奥は最上川河口。手前に貨物線「酒田港線」が走る。) (写真右:羽越線電化に伴い、酒田機関区で役割を終えた9632号蒸気機関車が保存されている。) (写真左:大正時代の木造洋風医院建築「旧白崎医院」。酒田大火後の復興事業で日和山に移築された。) (写真右:日和山公園の松尾芭蕉像) |
酒田の日和山公園は酒田港を望む砂丘の高台にある。日和山とはかつて船頭が日和を見た丘で現在は一帯が公園として整備されて酒田市民の憩いの場となっている。公園には円形の「方角石」が残されている。これは船頭が日和を見るときに方角を示した石である。酒田の発展は北前船によるところが大きいが、酒田と上方を結ぶ西廻り航路を往来した北前船(千石船)も再現され池に浮かべられている。その西廻り航路を一六七二年に開き、港町酒田発展の礎を築いた商人河村瑞賢の像も公園内に立っている。河村瑞賢が航路を開設した際、瑞賢は幕命により酒田湊に出羽の天領米の置場を設置した。この米置場は陣屋と称され、最上川舟運を利用してこの置場に米が集められた。この跡地にも米の字をした碑が残されている。一八一三年には酒田に出入りする船頭衆や廻船問屋の寄進で灯台として常夜灯が建てられている。木造の白い六角灯台は一八九五年に酒田市宮ノ浦に建てられたもので木造では日本最古の灯台である。のちに近代的な灯台が建てられて日和山に移築保存された。移築といえば公園には大正時代の木造洋風医院建築「旧白崎医院」が移築されている。酒田大火後の復興事業で移築された。その向いには羽越線で活躍した蒸気機関車も保存されている。日和山公園には酒田滞在中に詠んだ句碑も二つ建っている。 「温海山や 吹浦かけて 夕涼み」 「暑き日を 海にいれたり 最上川」 |
(写真左:酒田の総鎮守とされる日枝神社。本間光丘が造営したという。) (写真右:本間光丘の功績をたたえて祀った光丘神社。) (写真左:日枝神社の近くに立つ光丘文庫。) (写真右:海向寺には忠海上人、円明海上人の即身仏(ミイラ)が安置されている。) |
公園に続く森は山王の杜とされ、中心に酒田の総鎮守である日枝神社がある。酒田の町が最上川対岸の宮之浦から移った頃から産土として信仰されていたという。現在の「酒田まつり」の前身はこの日枝神社の祭礼「山王まつり」である。その建物は天明年間に本間家中興の祖、本間光丘が造営したものである。その本間光丘は庄内藩の財政再建や庄内砂丘での砂防林育成など郷土への貢献により大正七年に正五位を贈られ、同十三年には日枝神社の北側に光丘神社が建てられ祀られている。この記念に本間家では大正十四年に日枝神社の南東に本間家歴代の集書を蔵した光丘文庫を建てた。その南側には忠海上人、円明海上人の二体の即身仏(ミイラ)を安置する海向寺がある。この海向寺は注連寺(朝日村)の末寺で注連寺住職だった鉄門海上人も即身仏となり注連寺に納められている。 |
(写真:酒田舞娘の踊りが見られる料亭「相馬楼」。かつては「相馬屋」として「相馬屋事件」の舞台となった。) |
日枝神社から東へ参道を下って酒田の街中に真っ直ぐ進むと酒田舞娘の踊りを楽しむことができる料亭「相馬楼」がある。前身は江戸時代から続く料亭「相馬屋」で平成八年に国の登録文化財となっている。「相馬屋」に関しては一八八八年に「相馬屋事件」という不敬事件があったことで知られる。当時の酒田の政財界トップクラスの有力者が集まり、宮中御宴と称して天皇、皇后、大臣に仮装し、衣冠束帯を着用して四方にはった紫の幕に菊の紋を染め抜き、宮中もかくやという一大新年宴会を催したのである。警察は全員を検挙し、酒田政財界の有力者ほとんどが投獄されたため大騒動となり新聞にも書きたてられたが「証拠不十分」を理由に放免されて決着が図られた。当時の酒田商人の勢いがうかがえる事件とされる。 |