山形歴史紀行戦国武将伝〜諸家〜

 

大宝寺家

武藤晴時(?〜?)

庄内の武藤氏は鎮西奉行武藤(少弐)資頼の弟、武藤氏平が庄内の大泉荘地頭となったことに始まる。当初は大泉氏、のちに大宝寺城(後の鶴岡城)(鶴岡市)に入り大宝寺氏も称した。武藤氏は羽黒山別当を兼務し、羽黒山の権威を利用して勢力を拡大した。武藤晴時は1532年一族の砂越氏維に攻められ、大山の尾浦城(鶴岡市)に居城を移した。居城を移した背景には赤川の流路の変化による水害もあったという。

大宝寺義増(?〜1581)

武藤左京亮の子。従兄弟武藤晴時の跡を継ぎ尾浦城主(鶴岡市)となる。上杉謙信に従属していたが越後揚北衆と結びつきが強く、1568年の本庄繁長の謀反では一時本庄の謀反に加担したが、すぐに息子義氏を人質に出し、和睦した。最上川を遡って内陸地方への進出も図っており、1565年本合海(新庄市)付近の合戦で清水城主(大蔵村)清水義高を討ち取っている。

大宝寺義氏(1555〜1583)

義増の子。出羽守。幼少時、上杉謙信のもとで人質生活を送る。戻ると上杉氏の武力を背景に勢力拡大に乗り出した。1574年伊達輝宗らと連合し、最上義守を中心とする反最上義光包囲網に加わっている。1579年織田信長に馬と鷹を贈って「屋形」号を許された。義氏は上杉氏や中央の力を背景に庄内の支配を強化し、外征を重ね、勢力拡大を図ったが、その強権政治ゆえに「悪屋形」と呼ばれ、領民や武士には恐れ嫌われ「義氏繁昌、土民陣労」と歌われた。1582年最上川を遡り、最上義光に従う清水城(大蔵村)の清水義氏を攻めたため、義光は武藤家の前森蔵人や砂越氏・来次氏に謀反を働きかけた。まず砂越氏と来次氏が挙兵し、義氏は討伐のため前森に兵を預けるが、前森は一旦出陣した後、逆に尾浦城を攻撃。追い詰められた義氏は自害した。

大宝寺義興(?〜1587)

義氏の弟。始めは丸岡城主(櫛引町)で丸岡兵庫を名乗る。のちに藤島城主(藤島町)となり、羽黒山別当も兼務した。兄義氏が討たれると家臣に擁立され、武藤家を継ぐ。上杉景勝との結びつきを強めるため、本庄繁長の次男義勝を養子に迎えた。しかし最上義光に寝返った東禅寺義長らの軍勢に尾浦城を攻められ自害した。

東禅寺義長(?〜1588)

前森蔵人と同一人物ともいわれる。氏永。筑前守。東禅寺城主(後の亀ヶ崎城)(酒田市)。武藤義氏に仕えていたが、最上義光に内通し、1583年砂越氏らの討伐の際、逆に尾浦城を襲い、義氏を自害させた。その後、重臣らと協議で義氏の弟、義興が継いだが上杉との関係を深める義興に対し、再び義光に内通して尾浦城を攻め、義興を自害させた。庄内は最上領となり、東禅寺は実質上庄内を支配したが支配は上手く行かず、間もなく義興の養子義勝が本庄繁長らの上杉軍を味方につけ、庄内に侵攻。東禅寺らは十五里ヶ原で決戦に及んだが敗北し、討死した。

東禅寺勝正(?〜1588)

東禅寺義長の弟。右馬頭。兄とともに尾浦城の武藤義興を攻め、尾浦城将となった。十五里ヶ原の戦いで兄筑前守が討たれると、最後に敵将本庄繁長に一太刀浴びせようと名刀「正宗」と味方の首を片手に敵陣へ潜入し、首実検装い、本庄繁長に斬りつけたが「明珍」の甲冑に阻まれ、逆に本庄に討たれた。右馬頭の名刀「正宗」は本庄の手に渡り「本庄正宗」と呼ばれ、のち徳川紀州家に伝えられたという。

土佐林禅棟(?〜?)

林杖斎。藤島城主(藤島町)。武藤義増に仕え、上杉家臣本庄繁長の謀反に加担した時は、講和のため上杉謙信のもとに赴く。また本庄繁長の藤懸城攻めの総大将に任命された。武藤義氏が家督を継ぐと後見したが、1570年義氏と反目して上杉謙信が仲介に入った。しかし1571年再び義氏と対立し、攻撃されて没落したという。その後、藤島城には義氏の弟義興が入った。だが1583年武藤義氏が自害すると復権したものか、秋田の安東愛季に羽黒山造営の木材を請うている。

来次時秀(?〜?)

観音寺城主(八幡町)。1570年本庄繁長に書状を送っている。庄内の争乱を沈静化させるほどの力を有していた。

来次氏秀(?〜?)

観音寺城主(八幡町)。1578年上杉謙信の死去で武藤氏の影響力が低下すると、一時離反したが武藤義氏は知行を与えて懐柔した。鮭延城(真室川町)の鮭延秀綱(愛綱)から書状を受け、武藤vs最上の戦いでは日和見的立場をとり、上杉vs最上の戦いになると上杉方についた。秀吉の小田原攻め以来、上杉景勝の臣下となり、関ヶ原の戦いで西軍敗北により、上杉家が庄内を失うと氏秀もまた主家に従い観音寺城を去った。

砂越氏維(?〜?)

砂越城主(平田町)。砂越氏は最上川以北の有力な領主で武藤氏の庶族である。1532年氏維は武藤晴時の大宝寺城(鶴岡市)を攻め、大宝寺城下を焼き払い武藤氏を尾浦城に追いやった。砂越氏はその後も度々武藤氏に反抗したが十五里ヶ原の戦いで上杉家臣本庄繁長と子の武藤義勝が勝利すると砂越城を去ったという。

池田盛周(?〜?)

讃岐守。朝日山城主(酒田市)。父、池田盛国は天文年間、武藤氏に仕えた。1582年盛周は武藤義興に抵抗するが、戦後、武藤義興に所領を安堵された。1588年には武藤義勝を擁する越後の本荘繁長に抗戦したが、降伏後、武藤義勝に所領を安堵された。1590年の太閤検地に反対する一揆では一揆側に加わり、敗れて鮭延秀綱を頼り、最上郡に逃れた。1600年の慶長出羽合戦では朝日山城に舞い戻り、東禅寺城の上杉家臣志駄義秀と戦ったため上杉と最上の決戦に至る。子孫は最上家改易後、帰農した。一部の家系は米沢の上杉家に仕官したという。

阿部良輝(?〜?)

磐井出館主(平田町)。姓は安倍とも。前九年の役の安倍氏の子孫を称し、伊氏波神社別当職を勤めた。武藤氏に仕えていたが、子の貞嗣は最上氏に従い1588年十五里ヶ原の戦いで本庄繁長軍と戦い討死した。

板垣兼富(1539〜1564)

飽海郡菅里城主(遊佐町)。武藤義増の最上地方侵攻に従軍したらしい。1564年討死した。

金右馬丞(?〜?)

1590年豊臣秀吉の命で上杉景勝が行った奥州仕置に対し、藤島城を乗っ取り、平形館の平賀善可とともに藤島一揆を起こす。景勝が九戸政実征伐のため、九戸(岩手県)に出陣した隙を突いたものだった。平賀は尾浦城を攻めたが敗北し、火あぶりにされる。金は翌年まで籠城し、抵抗し続けた。ついに上杉家重臣直江兼続が起請文を出して開城させた。その後、佐渡に渡り、子の代に庄内藩に仕えて開拓に従事した。この一揆の裏には上杉氏の直接支配を嫌う本庄繁長・武藤義勝父子の暗躍があったという。

大江家

白鳥長久(?〜1584)

十郎。谷地城主(河北町)。白鳥長久はもともと白鳥城(村山市)にいたが、中条氏を滅ぼして最上川の要衝である谷地に進出した。1574年次男に跡を継がせようとする最上義守と嫡男最上義光父子が争い、義守の娘婿伊達輝宗も介入して諸豪族も巻き込む争乱になった際、白鳥は間に入って和睦させた。1577年織田信長に鷹や馬を贈って中央政権との結びつきを強めている。最上義光同様に出羽の支配を狙っていた。1584年最上義光から嫡男義康と白鳥の娘の縁組の話が持ち込まれ、承諾したが義光の謀略を警戒して山形城(山形市)には行かなかった。義光は仮病を使い、息子義康のことを託すということで白鳥を山形城に誘き寄せ、実際に病を装い最上家の行く末を頼んだ。白鳥がこれで油断したところを義光自ら斬りつけ、傷を負わせた。白鳥は山形城内の桜の樹の下に追い詰められ、最上勢から討ち取られた。こうして白鳥氏は滅亡。山形城内の桜は「血染めの桜」と呼ばれた。

橋間頼綱(?〜1584)

大江高基の弟。勘十郎。柴橋城主(寒河江市)。姓は羽柴とも。大力無双の剛の者で大江軍と白鳥旧臣を指揮し、中野原の戦いで最上義光を相手に奮戦した。てこずった義光はわざと退いて勘十郎を誘い込み、伏兵の鉄砲隊で討ち取った。

大江高基(?〜1584)

大江(寒河江)兼広の養子。吉川基綱の子。堯元。寒河江城主(寒河江市)。大江氏は源頼朝の臣大江広元の子孫で村山に根付いた一族が大江氏または寒河江氏を称し、置賜を支配した一族が長井氏を称した。大江兼広は1560年最上義守の攻撃を撃退している。兼広には男子が無く最上義光の長男義康を婿にして跡を継がせる約束があったが、これを反故にして一族吉川氏の堯元に跡を継がせたため、遺恨を残したという。1583年庄内の武藤義氏が謀反で自害した。堯元は援軍を派遣したが間に合わなかったという。最上義光は最上川西岸の支配を目論み、白鳥十郎を謀殺し、続いて大江氏を攻撃した。堯元は弟勘十郎に白鳥の旧臣を預けて中野原で最上軍と戦ったが勘十郎は討死し、敗北した。堯元は貫見(大江町)に落ち延びたが自害し、大江氏嫡流は滅亡した。

郷目貞繁(1497?〜1577?)

右京進。寒河江の大江氏一族。1520年伊達稙宗が最上領に侵攻して高擶城(天童市)を攻めた際、捕虜となり5年ほど伊達領にいたともいう。武人画家となり、1529年「紙本著色瀟湘八景図巻」を制作。1529〜37年頃「絹本著色釈迦出山図」を制作。1557年「紙本墨画芦雁図」。1563年妻の菩提を弔うために天童若松観音堂に「板絵著色神馬図」を奉納している。画域は広く、村山地方に20数点の遺作を残している。

蜷川親世(?〜1568)

親俊。蜷川氏は代々足利将軍家に仕え、室町幕府政所代(沙汰人)を務めた。親世も十三代将軍足利義輝に仕え、丹波国船井郡蟠根寺城に拠ったが、1565年義輝が松永久秀に討ち取られ、親世は所領を失い、落衣(寒河江市)の高松左門を頼って出羽に落ち延びた。親俊は金谷原(寒河江市)で数年暮らしたが1568年失意のうちに亡くなり、金谷原の土佐林に葬られた。その墓は「土佐壇」と呼ばれた。子の親長は土佐の長宗我部元親、後に徳川家康に仕え、子孫は旗本となった。

蒲生家

蒲生氏郷(1556〜1595)

近江日野城主蒲生賢秀の子。幼名鶴千代。六角氏を滅ぼし、南近江に進出した織田信長の人質となるが、信長に気に入られ、信長の娘冬姫を娶わせられる。浅井・朝倉攻め、長島一向一揆、長篠の戦、伊賀攻めなど多くの合戦で活躍。信長没後は秀吉に従い滝川一益攻め、小牧・長久手の戦いで活躍し、伊勢国で十二万石を領し、松ヶ島城主となる。その後も九州征伐や小田原征伐に従軍し、奥州仕置の後、伊達政宗の旧領会津と仙道及び置賜に移封され九十二万石の太守となった。だが本人は喜ばず「小身でも畿内にいれば天下取りの機会もやってくるが奥州の田舎ではそれもかなわない」と嘆いた。秀吉とすれば伊達政宗、上杉景勝、最上義光、そして徳川家康らの有力大名の狭間でにらみを効かせられるのは氏郷だけと見込んだのだが、同時に信長の婿で大望もある蒲生氏郷を畿内に置くのは危険と判断した節もある。政宗が送った刺客を捕らえた際、かえって忠誠をほめたという。また次の天下人を聞かれて「前田利家か自分である。家康には知行を惜しみなく分配する器量が無いから天下人にはなれない。」と答えた。氏郷の美学ではこのような評価になのかもしれない。居城の黒川城を(会津)若松城、米沢城を松岬城と称したが、かつて領有した伊勢や近江の地名にならったという。40歳の若さで死去。茶人千利休の高弟でもあり、洗礼名レオンを名乗るキリシタン大名でもあった。氏郷の治世によって近江商人、伊勢商人が山形に進出するようになり、置賜地方では切支丹が増えたらしい。

蒲生秀行(1583〜1612)

幼名鶴千代。1595年父、氏郷の死で13歳で跡を継ぐ。1598年に家臣同士の争いが起き、蒲生郷安が亘理八右衛門を討ち果たした。この御家騒動で秀行は会津九十二万石を没収され、宇都宮十八万石に移された。蒲生氏の置賜支配はこうして8年で終わった。秀行はその後、関ヶ原の戦いの功で会津六十万石(※置賜は領しない)に復帰した。また1626年には秀行の次男の蒲生忠知が上山藩主となったが、僅か一年で兄の会津藩主蒲生忠郷が急死したため、本家を相続して伊予松山に移封された。

蒲生郷安(?〜1600)

元六角家臣赤坂隼人。蒲生氏郷に使え、改名。氏郷の会津移封後、米沢城主に抜擢され三万八千石。筆頭仕置奉行として活躍したが、秀行の代になり、秀行の寵臣亘理八右衛門を斬った。蒲生家は転封となり、郷安は小西行長に預けられた。関ヶ原の戦いでは小西行長の将として肥後で戦い、加藤清正に捕らえられ自刃した。

蒲生郷可(?〜?)

旧名上坂左門。九州征伐で先鋒として巌石城を攻撃。左一番隊の戦奉行。氏郷の会津移封後、最上との国境にある中山城(上山市)で一万三千石を領した。郷可は郷安と仲が悪く、1592年宮内城(南陽市)を修築し、米沢城の郷安を攻めようとしたが諸将の仲介で和解したという。

佐久間安次(1555〜1627)

安政。久右衛門。久六郎。父、佐久間盛次は織田信長の重臣佐久間信盛の兄。兄の佐久間盛政は「鬼玄蕃」と呼ばれ、柴田勝家に仕えた猛将。もう一人の兄、柴田勝政も柴田勝家に仕えて柴田姓を与えられた。安次も柴田勝家に仕えた。安次は保田知宗の養子となり、一時保田姓を称する。柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗北した後、織田信雄、北条氏政に仕えて秀吉に抵抗し続けた。小田原落城後は蒲生氏郷に仕え、会津転封の際に小国城主(小国町)となり一万石を領した。置賜地方は蒲生郷安、蒲生郷可、佐久間盛次の三人で統治された。弟の佐久間安之(勝之)も蒲生氏郷に仕えた。1600年関ヶ原の戦いでは弟とともに徳川家康に従い、1615年信濃飯山二万石を領した。小国城主の名前については佐久間久右衛門とも佐久間久左衛門とも書かれ、安次とも盛次とも伝わり、はっきりしない部分もある。

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