南陽人物伝

粟野秀用(?〜1595)

木工頭。喜左衛門。二色根城主(南陽市)。伊達小次郎の傅役であったが、小次郎が兄政宗に斬られたため、伊達家を出奔し、関白豊臣秀次に仕えた。武功により取立てられ、伊予松前十五万石の大名にまでなるが、秀次事件に連座して1595年自害した。このつながりで政宗も秀次一味と見られ、秀吉への弁明に奔走することになった。粟野氏は南陽市川樋、岩部山などに居館を持ち、南陽市付近で勢力があったらしい。また、かつて二色根には伊達家4代目伊達政依(粟野蔵人)開基とされる観音寺があった。伊達家3代目伊達義広は「粟野次郎」を名乗っており、『米沢事跡考』によると粟野氏は伊達義広の後胤にあたるらしい。

安部綱吉(1569〜1646)

菅原内膳の子。右馬助。十市。菅原内膳は越後安部里を領していたが、本庄繁長と戦い討死した。内膳の子十市は小国、梨郷と渡り歩き、宮内(南陽市)に落ち着き、安部右馬助綱吉を称したと伝えられる。1598年の上杉家入部で信州飯山城主から宮内の宮沢城主となった尾崎重誉の家臣となっている。1600年倉賀野綱元の配下として小滝口(南陽市)から長谷堂城(山形市)を攻め、武功を挙げた。その後、宮内の町割を行い、北条郷(南陽市一帯)の荒地の開発を推し進めた。吉野川の治水や宮内の熊野大社修復にも尽力した。1629年代官兼金山奉行となり金沢、大洞など赤湯(南陽市)周辺の金山を経営した。77歳で没し、息子綱正が開基した宮崎の綱正寺に葬られた。

水心子正秀(1750〜1825)

南陽市元中山出身。本名は鈴木三治郎。12歳で赤湯に出て北町にある横田家中の外山久助家に寄寓した。のちに鍛冶屋に弟子入りし、明和八年刀鍛冶を志して江戸に出た。鈴木宅英と称して武州八王子の刀工下原吉英のもとに弟子入りし、安永三年(1774年)に山形藩主秋元永朝のお抱え刀工となった。「水心子正秀」の他「鈴木三郎藤原宅英」「川部儀八郎藤原正秀」などを名乗り多くの名刀を残した。復古刀を提唱し『刀剣実用論』『剣工秘伝志』などを著した。荘司直胤(山形市鍛治町出身)ら多数の門弟を抱えた人物でもあり、新々刀の祖とされる。正秀ははじめは大坂新刀の写しなどを制作していたが、のちに焼の深い刀は折れやすいという欠点を改めるべく、復古論を掲げて備前伝を焼くようになった。勝海舟の愛刀がこの「水心子正秀」という。また、赤湯では水心子正秀銘の脇差が烏帽子山八幡宮に伝わる。

長晴登(1866〜1916)

衆議院議員。南陽市赤湯出身。米沢興譲館(米沢中学)を経て慶応義塾大学に進む。師範学校教師免許試験に合格するが教師にならなかった。赤湯に設立した金融会社の監査役に就いたり、平清水陶磁器株式会社を興して平清水焼の普及に努めたり、山形市七日町で山形自由新聞社を設立するなど地元財界で活躍していた。一方で郡会議員、県議会議員を歴任し、明治37年に衆議院議員に当選した。以後、当選四回。米沢藩以来、保護されていた南陽市水林の国有林払い下げの中止運動を仲介し、払い下げの撤回に成功したという。明治45年(1912年)七月十日、有楽町に設立された日本初のタクシー会社の社長にも就任した。また大正元年には日本橋に日本遊覧自動車株式会社を設立し、東京初の観光自動車業を始めた。だが大正四年の政変では政友会が惨敗して長議員も落選し、翌年急逝した。日本のタクシー、観光自動車業の祖と評される人物である。

吉田熊次(1874〜1949)

教育者。南陽市元中山出身。山形中学校などを経て、東京帝国大学文学部哲学科に進む。ヨーロッパに渡り、教育に関する視察を行うが、第一次世界大戦勃発によりマルセイユから脱出し、帰国。その後東京帝国大学で教育学を講義する。『系統的教育学』など著書を多数残し、教育学の確立に努めた。

結城豊太郎(1877〜1951)

財界人。南陽市赤湯に生まれる。旧制山形中学(山形東高)から旧制二高、東京帝国大学政治学科に進む。卒業後日本銀行に入り活躍。高橋是清大蔵大臣と井上準之助日本銀行総裁の推薦で安田財閥に招聘され、安田保善社専務理事と安田銀行(現富士銀行)副頭取を兼務。安田銀行のピープルズバンク化、安田大合同、安田共済生命事件の処分など安田善次郎刺殺後の安田財閥近代化を進め、東大安田講堂設立にも尽力した。しかし、安田のために働くのではなく、安田の組織を国家のために役立たせるという結城の姿勢は安田一族や部内から反発を受け、安田から追われることになった。その後、日本興業銀行総裁になり日本商工倶楽部を発足させ、中小企業の育成を図るなど昭和初期の不況対策にも取り組んだ。さらに商工組合中央金庫を創設し、日本商工会議所会頭を経て林銑十郎内閣の大蔵大臣に就任した。そして第15代日本銀行総裁になり、昭和19年まで戦時金融の責任者として活躍した。この頃、鮎川義介が日産を満州に移し、日米協力による満州開発で、アメリカとの関係改善にもつなげようと図った。しかし、日独枢軸派によりユダヤ系資本を入れる第二のハリマン事件だという非難を浴び、この構想は頓挫したが、この時、鮎川を支援したのが結城であった。国家統制色が強い中、金融協議会を設置し、金融の自主性・中立性を確保しようとした。また金融業者に対して、採算だけにとらわれず国債の所有を増やしてもらいたい旨を挨拶で述べたという。結城は郷里赤湯の人材育成のため「臨雲文庫」を創設した。井上準之助邸の旧薩摩藩江戸屋敷表門ももらい受け「臨雲文庫」の表門とした。また深く交流した安岡正篤に臨雲学規の揮毫を依頼している。現在では「結城豊太郎記念館」となっている。また、結城は「銀行ノ生命ハ信用ニ在リ」「運用ハ慎重ニ放資ハ公利公益ヲ重ンジ国家ノ進運ニ寄与スルコト」といった理念で指導したという。商工中金開業の際、記念品の風呂敷には結城の人生哲学「信は万事の本と為す」が書かれていたという。

参考文献『銀行ノ生命ハ信用ニ在リ 結城豊太郎の生涯』(NHK出版、秋田博著)ほか

「『銀行ノ命ハ信用ニ在リ』〜結城豊太郎と池田成彬〜」
わが故郷、置賜の人物には海軍軍人や財界人が多いようです。特に池田成彬(「興譲の系譜」参照)と結城豊太郎は戦前、戦中の金融恐慌期に日本の経済を背負い、一族支配の打破と組織の近代化を進め、結果的に戦後の財閥解体への道を切り開いたようです。戦後最初に財閥解体を決意した財閥は三井、次に安田という話もあります。二人とも銀行の信用を高めることを最大の課題にしていました。どんなことがあっても資金の確保と経営安定を目指した池田。「銀行ノ生命ハ信用ニ在リ」と言い続け、国家や地域への貢献に尽力した結城。現代においてもこの姿勢は重要と思います。
私が属する保険業界を見ても破綻や不誠実な対応が相次いで信用を失っております。今こそ、信用を得るために、安定した経営と誠実な対応が必要な時代なのです。「保険ノ生命モ信用ニ在リ」と心得、信用を得るため、ますます経営の安定とお客様のことを考えた対応に努める必要があると思うのです。

稲毛金七(詛風)(1891〜1946)

教育者。南陽市漆山出身。宮内小など近隣の学校の教壇に立ち、後に早稲田大学文学部に進む。雑誌記者を経験し、ドイツに渡って教育学を学ぶ。帰国して早稲田大学教授となり教育学等を講義した。日本教育史に残る大正時代の八大教育主張で「創造教育論」を主張し、形式的な注入教育を批判した。そのためなのか、大正10年の内務省警保局の「思想要注意人」にリストアップされている。